第15話 名前を呼べなかったあなたへ
数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。
しばらくお付き合いくださいますと嬉しいです。
ロザリーに案内されて訪れた皇城本館の最上階には、見上げるほどの高い天井までびっしりと本が詰め込まれた、広大な図書室があった。
窓から差し込む柔らかな光の中、静けさと古い紙の匂いが満ちている。実家の薄暗い塔で、破れかけた数冊の辞書だけを何度もめくっていたブランシュにとって、そこは世界のすべてが詰まった宝物庫のようだった。
「ごゆっくりお過ごしくださいね、殿下。私は夕刻にお迎えに参ります」
ロザリーが静かに扉を閉め、ブランシュは一人、本棚の間を歩き出した。
歴史、地理、植物学、そして古い伝承。家庭教師の授業で完璧に身につけた帝国語を頼りに、ブランシュは一冊の本を手に取り、窓際の椅子に腰掛けて夢中でページをめくった。
気づけば、この城に住んでからすでに三ヶ月ほどが経っていたが、初めて自分で選んだ知識を吸収できるこの環境に、ブランシュは時間を忘れてのめり込んでいた。
そんなある日のことだった。
「おや……ずいぶんと熱心な、可愛いお嬢さんがいるものだね」
ふいに上空から降ってきた穏やかな声に、ブランシュはハッとして顔を上げた。
いつの間にか、本の山を抱えた一人の老婆が目の前に立っていた。深い皺の刻まれた顔に、穏やかな笑みを浮かべている。聞くと、この広大な図書室をたった一人で管理しているという、司書の老婆だった。
流麗な帝国の言葉。ルベリオンの人間とは似ても似つかない、どこか異国風の顔立ち。
それなのに、その優しく細められた目元や、包み込むような温かい空気を感じた瞬間、ブランシュの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
(あの方に……似ている……)
脳裏に蘇るのは、あのルベリオンの冷たい塔。
実家の誰もが自分を呪い、無視する中で、唯一、夜中にこっそりと温かいスープを運んでくれた、あの年老いた侍女の姿だった。
「……どうかされましたかい? 私の顔に、何か汚れでも?」
司書の老婆が不思議そうに首を傾げる。ブランシュは慌てて首を振った。
「いいえ……ごめんなさい。ただ、私の知っている優しい人に、とても雰囲気が似ていたので、驚いてしまって」
「おや、そうかい。それは光栄だねぇ」
老婆は嬉しそうに目を細めると、ブランシュが読んでいた難解な歴史書に目を落とした。
「そんなに難しい本を読まなくても、ここには面白いお話がたくさんあるよ。何か読みたいものがあれば、このお婆さんに何でも言っておくれ」
「ありがとうございます。……あの、お名前を、お聞きしても良いですか?」
そこでブランシュは、かつてないほどに背筋を伸ばし、自らの意思を込めて、拙くも凛とした帝国語で言葉を続けた。
「あ、えっと……わたくしは、ブランシュ=リリ・ド・ローザンと申します。この度、皇帝陛下へと嫁ぐことになり、ルベリオン王国からやって参りました」
その丁寧な名乗りに、今度は老婆の方が目を丸くした。抱えていた本を机に置き、慌てて深く腰を折る。
「おやおや、なんてこった! 未来の皇后陛下であらせられましたか。とんだご無礼を、どうかお許しくださいませ。……改めまして、私はこの皇城の図書室の管理を任されております、マルタと申します」
「マルタ、さん……」
その名前を口の中で転がした瞬間、ブランシュの胸に、突如として激しい後悔と切なさが押し寄せてきた。
――私は、あの方の名前を、知らない。
ルベリオンの塔で、命を懸けて自分を世話し、最期は自分の身代わりのようになって亡くなってしまった、あの老侍女。
実家でのブランシュは、声を出すことすら許されない『呪われた無能』だった。老侍女もまた、周囲の目を盗んで動いていたため、二人が言葉を交わす時間はほとんどなかった。
ただ、暗闇の中で差し出される温かい手の温もりと、皺くちゃの手が自分の頭を撫でてくれる優しさだけが、ブランシュの世界のすべてだった。
あの時、私は一度でも、あの方の名前を呼べただろうか。
いや、そもそも名前を聞くことすら、思い至らなかった。自分を愛してくれた唯一の人の名前すら知らず、私はその死を悼むこともできずに、この国へ連れてこられたのだ。
(私は、あの方の名前を呼びたかったんだ……呼んで、ありがとうと、伝えたかった……)
堰を切ったように溢れ出す思い出と、過去の自分の無力さへの悔恨。
ブランシュの純白の瞳から、ぽろぽろと大きな涙が溢れ、膝の上の本を濡らした。
「おやおや、ブランシュ様、どうされたんだい? どこかお体が痛むのかい?」
驚いたマルタが、慌てて自身の懐から使い古された、けれど清潔なハンカチを取り出して、ブランシュの涙を優しく拭った。その皺だらけの温かい手の感触が、ルベリオンの老侍女の手と、あまりにも完璧に重なった。
「ごめんなさい……悲しいわけでは、ないのです。ただ、もう二度と会えない大切な人を、思い出してしまって。その人の名前を、一度も呼んであげられなかったことが、とても、苦しくて……」
拙いながらも、必死に胸の内を紡ぐブランシュ。マルタは彼女の背中を、小さな子供をあやすように、ゆっくりと、優しく叩き続けた。
「そうかい、そうかい。辛かったねぇ。……だけどね、ブランシュ様。名前を呼べなかったとしても、その人があなた様に注いだ愛は、何も消えやしないよ」
「……え?」
「その人はきっとね、自分の名前なんてどうでもよかったんだ。ただ、こうして生き延びて、温かい場所で自分のことを思い出して、涙を流してくれている。それだけで、その人の命は救われているんだよ」
「……でも私、その方に、恨まれてもいたのです……」
ブランシュの純白の瞳から、ぽとり、ぽとりと、堪えきれない雫が落ちる。
「私と過したせいで、あの方は酷い目に遭って……命まで落としてしまった。もし、もっと名前を呼び合えるくらいの、親しい距離であったなら……何か違う未来があったのではないかと……」
自分が生きていて良いのだろうかという、ずっと胸の奥に燻っていた罪悪感。
その様子を見たマルタはひと呼吸置いて、どこまでも落ち着いた、慈愛に満ちた声でブランシュへ語りかけた。
「私はその人ではないから、本当のところは分からないけれどね。……けれど、人の愛については、少しばかり経験があります。その人は、あなたのことを恨んでもいたのでしょうが、間違いなく、それよりも遥かにあなたを愛していたのだと、私は思いますよ」
「……どうして、そう思うのですか?」
「だってその人は、あなたの心に、今でも忘れられないくらいの温かな思い出をくれたのでしょう? あなたに『こんなことをして欲しい』とか『こんな物が欲しい』という要求は何も無く、ただただ、あなた様のことだけを慮っていた。――愛とは、そうしたものです」
マルタは優しく微笑み、ブランシュの小さな手を包み込んだ。
「いっときのことや、たった一瞬の出来事だとしてもね。それがただ、あなたの幸せや助けになるようなことだけであったならば、それは愛を持つ相手にしかできぬことなのです。見返りなんてなく、ただ、あなたのためだけにそうせずにはいられない。愛とは、そうしたものなのですよ」
マルタの言葉が、ブランシュの凍りついていた過去の傷へ、じわじわと染み渡っていく。
名前は知らなくても、あの暗闇の中で運んでくれた温かいスープの味も、頭を撫でてくれた手の温もりも、すべては今、自分の中に生きている。あの方が命を懸けて守ってくれたから、私は今、この大国で生きている。
――それは、確かにマルタの言う通り、私への『愛』だったのだ。私は、愛されていたのだ、と。
「……はい。……はい……っ」
ブランシュはマルタのハンカチを握りしめ、子供のように声を上げて泣いた。
それは、過去の地獄を乗り越え、本当の意味で前を向くための、優しく切ない、救済の涙だった。
それ以来、ブランシュは家庭教師の授業がない日は、必ずこの図書室へ通うようになった。
マルタという新たな理解者との出会いが、彼女にとって、過去を過去として静かに飲み込める、最高に温かい救済となったのだった。
お読みいただきましてありがとうございました。
次回もお楽しみくださいますと幸いです。




