第11話 差し出される温もり
数ある作品の中からちらりと覗いてくださりありがとうございます。
しばらくお付き合いくださいますと嬉しいです。
完全に言葉を失い、呆けたように立ち尽くす漆黒の皇帝。
その視線に、ブランシュはハッと我に返った。泥塗れの生贄としてではなく、今は帝国の城で「皇族」として扱われているのだ。正しく、礼を尽くさなければ。
ブランシュはすぐに頭を垂れ、痛む体で流麗なカーテシーの姿勢を取った。
「――ヴァランシエンヌ帝国……の、大いなる、太陽に。ルベリオンが第一王女、ブランシュ、謹んで……朝の、ご挨拶を、申し上げます」
一ヶ月で何とか形にした拙い帝国の言語。けれど、その姿勢だけは完璧だった。どれほど虐げられても、彼女の骨肉に刻まれた王族としてのプライドが、その美しい一礼を崩させない。
アルチュールはその純白の姿を、ただ圧倒されたように見つめ続けていた。しばらくして、ようやく我に返ったように、いつものお決まりの冷淡な言葉を返す。
「……面を上げよ。姿勢を解くがいい」
そのぎこちないやり取りを見ていたロザリーが、すっとブランシュの傍らに歩み寄り、その細い体を支えるように優しく声をかけた。
「殿下、お身体に障りますよ。まだ傷が癒えきらぬのですから、そのような無理をなさってはいけません」
ロザリーはブランシュを気遣ったあと、今度は主君であるアルチュールと彼女を交互に見やり、少しだけ呆れたように、けれど温かい声で告げた。
「お二人とも。そのような、どこの使節とでもできるようなお決まりのご挨拶は、ここでなさらなくとも良いのです。……陛下、他にもっと、大切なお言葉がございますでしょう?」
ロザリーの言葉の意図に、アルチュールはすぐに気が付いた。
聖典を捻じ曲げ、魔力による搾取と強制労働を正しいとしてきたルベリオン。そこで傷ついてきたこの少女に、まずは「人として当たり前の生活」を、そして何よりも「人としての当たり前の温もり」を教えなさいと、侍女長は促しているのだ。
アルチュールはひと呼吸置き、ずきずきと内側から疼く痛みを抑えながら、ゆっくりとブランシュへ歩み寄った。
そして、その深い黒い瞳を、ブランシュの純白の瞳と、真っ直ぐに合わせた。
「……おはよう、ブランシュ」
それは、昨夜の冷徹な声とはまるで違う、低く、深く、そして露骨なほどに彼女を労る、初めての優しい響きだった。
「昨夜は、よく眠れたか。医官の薬は……その、頭皮の痛みは、少しは和らいだだろうか」
ドラマチックなほどに、真っ直ぐに向けられた気遣いの言葉。
ブランシュは生まれて初めて体験する「まっとうな朝の挨拶」と、自分の体調を案じる「本物の優しさ」に、なんと返したら良いのか分からず、ただ唇を小さく震わせて立ち尽くしてしまった。実家では「おはよう」の代わりに罵声を浴びせられ、体調を問われる時は「まだ生きているのか」と嫌悪されるのが当たり前だったからだ。
困惑する彼女を見て、アルチュールは静かに、噛み砕くように教え諭した。
「……戸惑うことはない。『おはよう』という挨拶を向けられたら、同じように挨拶を返すんだ。そして、体調や様子を俺から問われたら、我慢などせず、正直にありのままを伝えるだけでいい」
真っ直ぐな漆黒の瞳に射すくめられ、ブランシュは、ぽつり、ぽつりと、慣れない帝国の言語で話し始めた。
「……よく、眠れました。お布団が、とても、軽くて、温かくて……。お薬も、実家のもののように灼けなくて、じんわりと、痛みを消してくれました。……お食事も、魔法の温め直しではないのに、とても温かくて……美味しくて」
胸の手前で、白い部屋着の布地をきゅっと握りしめる。
「何もかもが、初めてで……。心が、胸の奥が、なんだか、分からない、説明…できない、温かいもので満たされていて……どうして良いか、分からないのです」
彼女が一通り話し終えたとき、室内に優しい静寂が訪れた。
ブランシュは、真っ直ぐにアルチュールへと向き直った。その顔には、実家の神殿で見せたような冷めた表情はどこにもない。朝日の光を浴びて、ほんの少しだけ頬を染めた、驚くほどに柔らかな、美しい微笑みがそこにあった。
「私を……このような、温かい場所に迎えてくださり、ありがとうございます。……アルチュール、陛下。おはよう、ございます」
純白の少女が紡いだ、初めての、心からの朝の挨拶。
そのまばゆい美しさと、あまりに健気な感謝の言葉に、今度はアルチュールが胸を強く突かれたように視線を揺らした。
その後、二人の間に、何とも言えない気まずい沈黙が流れた。
お互いに何を話していいか分からず、アルチュールはそっぽを向き、ブランシュは恥ずかしそうに俯く。
すると後ろから、ロザリーがアルチュールの背中を、小言を言うようにツンと軽く小突いた。
(陛下、朝の挨拶のあとはどうするのですか? まさかそのまま放置して執務室へ戻るおつもりですか?)と、目で雄弁に語りかけている。
アルチュールはまたもバツが悪そうに咳払いをし、眉根を寄せながらも、ブランシュを見つめ直した。
「……まだ長旅の疲れも、体の傷も癒えていないだろう。朝食は、このままこの部屋で、俺と一緒に取るぞ。ロザリー、すぐに二人分の朝食をここに用意させろ。……彼女の胃に障らない、優しいものを頼む」
「御意に、我が皇帝陛下」
ロザリーはしてやったりと、深く、満足そうな笑みを浮かべて一礼した。
すべてが漆黒に染まったこの大国で、純白の少女の前に、初めて「誰かと共に囲む、温かい食卓」が用意されようとしていた。
お読みいただきましてありがとうございました。
次回もお楽しみくださいますと幸いです。




