第9話 影と純白
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「殿下、ゆっくりとお休みくださいませ。よく頑張られましたね」
ブランシュの穏やかな寝息を確認し、ロザリーはその目元に残った一筋の涙を、絹のハンカチで優しく拭った。
枕元のサイドテーブルには、あらかじめ医官に指示して処方させておいた、鎮痛効果と安眠効果のある特製のお香を炊く。
ロザリーは音を立てないよう極めて静かに、重厚感のある扉を閉めて廊下に出た。
(……さあ、ここからが一番の私の仕事だわ)
すっと表情を引き締め、ロザリーは夜の廊下を滑るように歩き出す。向かうは、主君アルチュールの執務室だ。扉をノックし、室内の許可を得て中へ入ると、主は相変わらず書類の山と格闘していた。
「アルチュール陛下。ルベリオンの王女――ブランシュ殿下のご様子を報告に参りました。現在は、お部屋で安らかに眠られております」
「……そうか」
アルチュールはペンを止めず、低い声で応じる。
ロザリーは一礼し、淡々と、しかし極めて的確に「己の采配」を報告し始めた。
「医官にはあらかじめ『あらゆる不快感を与えぬよう、手品師よりも優しく触診せよ』と厳命しておきました。殿下は、ご自身の肌に触れられることすら極度に怯えておいででしたので。それから頭皮の治療ですが、ただ薬を塗るだけでなく、染料の毒性を中和する最高級の薬膏を厚く塗布させました。数日であの爛れは引くかと存じます」
「……ふむ」
「お召し替えについては、あらかじめ部屋に用意されていた礼服用のシルクをすべて撤去させ、急ぎ倉庫から最高級の未加工綿を編んだ寝着を取り寄せました。あの擦り傷だらけのお体にシルクは、繊維の摩擦で激痛が走りますから。……幸い、殿下はご自身でそれを選ばれ、その柔らかさに少しだけ表情を緩めてくださいました」
アルチュールが、僅かにペンを握る手を止める。
ロザリーの采配はそれだけに留まらない。
「お食事ですが、厨房の料理長が張り切って子羊のローストなどを用意しておりましたので、すべて放り捨てさせました」
「……何?」
ここで初めて、アルチュールが怪訝そうに顔を上げた。ロザリーは平然と胸を張る。
「あのような酷い飢餓状態の胃袋に、いきなり脂っこい肉を流し込めば、今頃殿下は胃痙攣を起こして命を落としておりますわ。厨房には、鶏の出汁を極限まで薄めて細かく刻んだ根菜を煮込んだスープを一杯だけ作らせました。殿下の様子を見ながら、少しずつ、少しずつ、胃袋を温めるように給仕いたしました。おかげさまで、一口も吐き出すことなく召し上がっていただけましたわ」
治療、着替え、食事。
ブランシュの前では流れるように行われていた至高の労りは、すべてロザリーが「虐げられてきた少女の心身」を瞬時に見抜き、一秒の狂いもなく裏で指示を出した結果だったのだ。
アルチュールはふっと口元を緩め、椅子の背もたれに体を預けた。
「相変わらず、完璧な采配だな。ロザリー」
「当然でございます。私はヴァランシエンヌ帝国の侍女長ですから。……ですが」
ロザリーはそこで言葉を区切り、すっと目を細めて主君を見つめた。
「アルチュール様。一つだけ、よろしいでしょうか」
「何だ」
「お風呂と治療をお命じになった際のあのお言葉……。『不快だ、悪臭を漂わせるな』とは、一体どの口が仰ったのですか?」
ぴくり、とアルチュールの眉が跳ねる。
「……事実を言ったまでだ。泥と血の匂いがしていた」
「あのお可哀想な殿下は、ご自身が『本当に嫌われて首を刎ねられるのだ』と、あの気丈な態度の裏でどれほど怯えておいでだったでしょう。きっと生きた心地もしなかったはず、おいたわしい……。あのお姿を見れば、民衆の暴動に巻き込まれ、まともな着替えも許されずに連れてこられたことくらい、一目瞭然でしたでしょうに。……本当に、あの方の心根の気高さに免じて、我が主の言葉の足りなさは私が誠心誠意カバーさせて頂きましたとも、えぇ。」
「ロザリー……」
「もっと優しく『お疲れ様、まずは汚れを落として体を休めなさい』と仰っていれば、今頃殿下はアルチュール様に涙を流して感謝しておいででしたでしょう。まったく、戦場ばかりにおいでだから、女の子の扱いがいつまで経っても新兵以下なのですわ」
やれやれ、と大袈裟にため息をつく侍女長に、さすがの皇帝も形無しだった。アルチュールはバツが悪そうに視線を逸らし、拳で口元を隠して小さく咳払いをする。
「……余計なお世話だ。俺はただ、我が城に不潔なものを置きたくなかっただけだ」
「はいはい、そういうことにしておきましょ。まあ、汚れを落としたあの方の本当の姿を見れば、さすがの陛下もその不器用なお口が完全に閉ざされると思いますけれど」
「どういう意味だ?」
「フフ、内緒でございます。明日のお楽しみに。……それでは陛下、夜も更けましたので、書類はその辺りにしてお休みくださいませ。お肌が荒れますよ?」
クスリと不敵に微笑み、ロザリーは流麗な動作で一礼すると、今度こそ執務室を退室していった。
静まり返った室内で、アルチュールは一人、ぽつんと取り残される。
ペンを置き、ずきずきと疼く自らの魔力を抑えながら、彼はロザリーの言葉を反芻していた。
(女の子の扱いが、新兵以下、か……)
窓の外の月を見上げ、冷徹な皇帝は、ほんの少しだけ明日の朝が訪れるのを奇妙に待ち遠しく感じていた。
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