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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
2章 半分の力で

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戻らない

使者が去った翌朝、テラスでマリアの茶を飲みながら、考えを整理した。


カイルの提案は断った。王宮の使者も追い返した。アレクシスの伝言は受け取らなかった。三つの圧力を、三つとも退けた。ここまでは良い。問題は、この先だ。


帰国しないという選択は、制度の中の安全を手放すことを意味する。フリードリヒの庇護は遠い。王宮の圧力は近い。ロストリアにいる限り、ハーリドの善意に依存する部分がある。善意は善意であって、権利ではない。


「整理しましょう」


マリアが言った。テーブルの上にノートを開く。マリアのノートは、茶葉の在庫管理と同じ用紙に、状況分析が並んでいる。


「帰る理由。王宮の圧力、結界管理局の要請、アレクシス殿下の未練。これらは全部、私たちがいない場所からの力です」


「帰らない理由は」


「石門がまだ開ききっていない。母の記録がある。紋章の意味がまだ分かっていない。これらは全部、ここにある理由です」


マリアは紅茶を一口飲んで、ノートにペンを走らせた。帰る理由と帰らない理由を、二列に並べている。字は丁寧で小さい。茶葉の在庫管理と同じ精度で、人生の判断材料を整理している。


「リゼロッテ様。帰る理由は全部、他人の都合です。帰らない理由は全部、あなた自身の問いです」


分かっている。分かっていたが、マリアに整理されると、もう一段はっきりする。この人は感情に寄り添いながら、同時に構造を見せてくれる。優しさと分析を同時にできる人間は少ない。マリアはその稀な一人だ。


ルーカスがテラスに来た。パンの切れ端を齧っている。相変わらず朝食と移動を同時にやる人だ。靴に砂がついている。朝の巡回をしてきたのだろう。


「決めたのか」


「ここに残ります。門を開けるまで」


「そうか」


ルーカスはパンを飲み込んで、茶を一口飲んだ。マリアの配合。ミント強め。顔をしかめた。


「ミント多い」


「ルーカス殿には薄めに淹れましょうか」


「いや、いい。慣れる」


この人は、環境に文句を言わない。合わなくても合わせる。不快でも不快だと言わない。パンを浸す癖以外は。昨日の夕方、テラスで二人きりになった時も、使者の件について何も聞かなかった。私が話し始めるまで待っている。待つことが得意な人だ。


午後、ナディアに会った。遺跡調査の事務所で、茶を飲みながら。事務所の壁には、遺跡の地図と紋章のスケッチが貼られている。ナディアの字で注釈が書き込まれている。二十年分の研究の痕跡。


ここに残ると伝えると、ナディアは少し驚いた顔をした。すぐに戻ったが。


「王宮の使者を追い返したと聞きました」


「追い返したのではなく、お帰りいただいたのです」


「結果は同じですが、表現は大事ですね」


ナディアが微笑んだ。初めて、研究者ではなく人間としての笑みに見えた。


「残るなら、門の調査を続けましょう。半分の力で安定供給する方法を、一緒に探りましょう」


「対等な協力として」


「ハーリド殿下がそう望んでいますし、私もそう思います」


対等。その言葉が、ここでは王宮とは違う重さを持っている。王宮では「対等」は形式だった。書類の上では対等でも、実態は力の差で決まっていた。ここでは、実際に必要としている者同士の間に生まれる均衡。私は門を開ける力を持っている。ナディアは門の知識を持っている。どちらも相手なしでは完結しない。だから対等になれる。


テラスに戻って、夕日を見た。ザハラの白い壁が橙に染まっていく。壁の表面の凹凸が、夕日の角度で影を作る。朝は見えなかった模様が、夕方になると浮かび上がる。街全体が、時間によって違う顔を見せる。


ここにいる。自分で選んで。戻らない。戻る必要がない。マリアが夕食の支度を始めた。厨房から、香辛料の匂いが漂ってくる。市場で覚えた配合を試しているのだろう。クミンの匂い。コリアンダーの匂い。名前の分からない辛味の匂い。ルーカスが剣の手入れをしている。金属と布の擦れる音。二人の日常の音が、テラスを包んでいる。


ペンダントを握った。母の紋章。母もかつてここに立って、同じ選択をしたのかもしれない。帰るか、残るか。この空を見て、この風を受けて、この匂いを嗅いで。母は帰った。理由があったのだろう。私は残る。私にも理由がある。同じ紋章を持っていても、選ぶ道は違う。それでいい。それが、「自分で選ぶ」ということだ。

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