知らされていなかったこと
夜になっても、母の書簡を読み返していた。
ランプの光が紙面を照らしている。窓の外は暗い。砂漠の夜は静かだ。昼間の喧騒が嘘のように消えて、風の音だけが残る。遠くで犬が吠えた。一声だけ。それから沈黙。星が多い夜だ。ランプの光が窓ガラスに反射して、部屋の中に二つ目の明かりを作っている。
書簡の最後のページを何度目かめくった。母の字。丁寧な字。角が丸くて、少し右に傾いている。「いつか、この子が自分で選ぶ日のために」。この一行だけ、他の行より少しインクが太い。力を込めて書いた。あるいは、ペンを動かす前に長い間考えた。
私の知らないところで、母は計画を立てていた。ペンダントを渡すこと。紋章の意味を教えないこと。私が自分の足でロストリアに来ること。すべてが設計されていた。母の愛情は、計画と矛盾しない。でも、計画の中にいた私は、計画の外にいる今の私とは違う。
そのことが、嬉しくない。
怒っているのでもない。悲しいのでもない。ただ、知らされていなかったことが、胸の奥で静かに痛む。冷たい石を飲み込んだような、重くて硬い感覚。喉の奥にひっかかって、どちらにも動かない。吐き出すこともできない。飲み下すこともできない。
母には理由があった。王家に知られれば危険だったから。私が幼すぎたから。知らない方が安全だったから。理由はいくつでも思いつく。全部正しいのかもしれない。
でも。
「いつか教えてあげる」と笑った母の顔を思い出す。あの笑みは、計画の一部だったのか。優しさだったのか。両方だったのか。区別がつかない。区別がつかないことが、一番痛い。
ドアをノックする音がした。軽い、二回。間隔が均等。マリアだ。ルーカスなら三回、不均等に叩く。
「入って」
マリアが茶を持ってきた。カモミールにミントを足したもの。いつもの配合。蒸気の形が、ランプの光の中でゆっくり揺れている。カップをテーブルに置いて、書簡を一瞥した。読んではいない。でも、私の顔を見て、何が書いてあったかの輪郭を察している。この人は文字を読まなくても、人の顔から物語を読む。
「お辛いですか」
「……少し」
「そうですか」
マリアはそれ以上聞かなかった。椅子を引いて、テーブルの向かいに座った。何もしない。ただ、同じ部屋にいる。紅茶の湯気が、二人の間でゆっくり立ち上っている。
ルーカスの足音が廊下を通り過ぎた。重い足音。一歩ごとに床板がきしむ。部屋の前で一瞬止まって、また歩き出した。入ってこない。今は入るべきではないと判断したのだろう。あるいはマリアがいることに気づいて、任せたのか。
茶を一口飲んだ。温かい。カモミールの甘さが、口の中に広がる。喉を通って、胃に落ちて、身体の芯にじんわりと広がる。冷たかった石が、ほんの少しだけ温まった気がした。
「マリア。母は、この土地に来たことがあったのね」
「そのようですね」
「知っていて、教えてくれなかった」
「教えられなかったのかもしれません」
マリアの声は、いつもと同じ温度だった。判断しない。責めない。肯定も否定もしない。ただ、もう一つの可能性を置くだけ。教えたかったけれど、時間がなかった。あるいは、教えるための条件が揃わなかった。母は私が六歳の時に亡くなった。六歳の子供に、王家との力関係や、古い契約の話ができるだろうか。
書簡をもう一度見た。母の字。「返すもの」「預かるもの」「渡さないもの」「守るもの」。四つの分類。整然としている。母は、力の取り扱いを、感情ではなく構造で整理していた。私に似ている。いや、私が母に似ているのだ。同じやり方で世界を整理している。
茶を飲み干した。カップの底にミントの葉が沈んでいる。緑が、ランプの光で黒く見える。
窓の外で、風が砂を運んでいた。乾いた音が、壁の向こうで続いている。砂が壁を撫でる音は、遠くの波に似ている。知らされていなかったことの痛みは消えない。でも、その痛みの中に、母が私を信じていた痕跡がある。自分で選ぶ日のために。その日が、今日だ。
マリアが立ち上がって、カップを片付けた。ドアの前で振り返った。
「おやすみなさい、リゼロッテ様」
「おやすみ、マリア」
ドアが閉まった。一人になった部屋で、書簡を畳んで、胸ポケットに入れた。ペンダントの隣に。母の言葉と、母の紋章。二つが胸の上で重なった。




