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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
2章 半分の力で

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母の筆跡

セレンからの荷が届いた。


宿舎の入口に、革の鞄が一つ。封蝋はセレンの灰色の印。鞄は砂塵で汚れていた。ここまでの旅路が長かったのだろう。中には書類の束と、短い手紙。セレンの字は小さく正確で、一行も無駄がない。


『ガルディアの図書館で見つけた。イザベラ・ブランシュの書簡の写し。原本は公爵家の書庫にあるが、写しが学術文献として残っていた。重要だと判断して送る。急ぎの便で出すから、着く頃にはすでに用済みかもしれないが、念のため。セレン』


用済みかもしれない、と書く几帳面さ。用済みでも送る実直さ。セレンらしい。


書類の束を開いた。羊皮紙ではなく、普通の紙に書き写されたものだ。しかし筆跡は母のものを忠実に再現していた。セレンが自分で写したのだろう。写しの精度が高い。インクの太さの変化まで再現されている。あの子は几帳面を通り越して、執念深い。


母の字は、私の記憶通りだった。少し右に傾いて、角が丸い。急いで書いたところはインクが太くなる。ゆっくり書いたところは線が細い。この字を、子供の頃に家庭教師からの手紙で見ていた。母が出張先から送ってくれた、短い便り。「元気にしていますか。花の水やりを忘れないで」というような、他愛もない内容。あの字と、同じ字が、今目の前にある。


部屋の窓を閉めた。砂漠の風を遮って、静かな空間を作る。テーブルの上にランプを置いて、書簡を広げた。


書簡の内容を読み始めた。


宛先はブランシュ家の当主——母の父、つまり私の祖父。日付は二十三年前。私が生まれる二年前。ハーリドが言っていた調査団の時期と一致する。


『ロストリアの遺跡調査は順調に進んでいます。第三石門の紋章がブランシュ家のものと同一であることは確認しました。門の構造は、魔力応答型です。ブランシュ家の魔力に特化した設計になっています。これは王家の供給体制とは別の系統の仕組みです』


別の系統。ブランシュ家の魔力供給役としての位置づけとは、異なる仕組み。


次のページ。


『石門の内部には、記録が保存されていると推測されます。しかし、開門には全力の魔力が必要です。現時点の私の力では、部分的な応答しか得られません。また、この情報を王家に報告するかについては、慎重に判断する必要があります。ブランシュ家の紋章が王国外にあるという事実は、王家にとって都合の悪い情報です』


都合の悪い情報。王家がブランシュ家を魔力供給役として管理してきた根拠が揺らぐ情報。ブランシュ家の魔力は、王家のために存在するのではなく、もっと古い目的のために設計されたものかもしれないという情報。


指先が震えた。


母は、知っていた。紋章の意味を。門の仕組みを。そして王家にこの情報を報告することの危険を。


次のページには、母の独自の分類が書かれていた。


『返すもの:ロストリアの記録へのアクセス権。預かるもの:ブランシュ家の魔力系統の管理。渡さないもの:王家への一方的な供給義務の根拠。守るもの:次の世代がこの情報に辿り着くための道筋』


次の世代。私のことだ。


母は、私がいつかこの情報に辿り着くことを想定していた。ペンダントを残したのは偶然ではない。紋章を教えなかったのも偶然ではない。私が自分の足でここに来ることを、母は設計していた。


書簡の最後のページには、一文だけ書かれていた。


『いつか、この子が自分で選ぶ日のために』


この子。私のことだ。書かれた時、私はまだ生まれていなかった。母はまだ見ぬ私のために、この言葉を書いた。ペンダントを残したのは偶然ではない。紋章の意味を教えなかったのも偶然ではない。私が自分の足でここに来ることを、母は設計していた。


指で母の字をなぞった。紙の上のインクの凹凸が、指の腹に伝わる。二十三年前のインク。母の指がこの紙に触れていた。同じ場所を、今、私の指が通っている。書簡の端が少し黄ばんでいる。時間の重さが、紙の色に出ている。


ペンダントを握った。母の紋章と、母の言葉。二つを同時に持っている。手のひらの中で、金属の冷たさと紙の柔らかさが重なる。


窓の外で、風が砂を運んでいた。夕日がザハラの壁を橙に染めている。壁の白が、橙に変わる瞬間は、一日の中で最も色が複雑になる時間だ。マリアがドアの外で待っていた。入ってこない。この時間が必要だと分かっているのだろう。ルーカスの気配はない。彼もどこかで待っているのだ。二人とも、私の時間を守っている。

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