砂の市場
朝、宿舎の窓を開けると、市場の喧騒が流れ込んできた。
声が幾重にも重なっている。売り子の呼び声、荷車の軋み、金属を叩く音、布がはためく音。王都の朝とは違う。ここの朝は、静寂から始まらない。最初から全速力で動いている。太陽が高くなれば暑くなりすぎるから、涼しいうちに商売を済ませるのだろう。砂漠の生活は、光との競争だ。
マリアがミント入りのカモミール茶を淹れてくれた。もう味が安定している。昨日の国境の町での試作から一晩で配合を決めたのだろう。一口含む。ミントの清涼感が先に来て、カモミールの甘さが追いかける。砂漠の空気に合う味だ。パンと干し果物の朝食を済ませながら、窓越しに市場を眺めた。
ナディアが迎えに来た。今日は遺跡ではなく、市場を案内するという。
「遺跡の前に、この街を見ていただきたい。ロストリアを知らずに遺跡だけ見ても、文脈が足りませんから」
合理的な理由だ。しかし、それだけではないだろう。私がどう反応するかを見たいのだ。
市場は宿舎から歩いて十分ほどの場所にあった。広場の周囲を屋台と露店が囲んでいる。布の天幕が日差しを遮り、色とりどりの影を地面に落としている。赤い布の影、青い布の影、黄色い布の影。歩くたびに色が変わる。
匂いが層になっている。入口は香辛料。クミンと乾燥唐辛子の辛い匂い。次の通りは革と染料。その奥は、焼いた肉と煮込んだ豆。さらに奥は、花の香油。甘くて重い匂いが、空気の底に溜まっている。
マリアが足を止めた。香辛料の屋台の前。木箱の中に、色の違う粉が山のように盛られている。
「これは昨夜の料理に使われていたものですね」
屋台の主人に話しかけている。マリアは言葉が通じなくても、指差しと笑顔で情報を引き出す。数分で、三種類の香辛料の名前と使い方を聞き出した。小さな紙包みを四つ買って、鞄に仕舞った。厨房から始まる情報収集。この人のやり方は、どこに行っても変わらない。
ルーカスは二歩後ろを歩いている。視線は周囲を巡回している。護衛の目だ。市場の人混みの中で、誰が私を見ているか。誰が不自然な動きをしているか。彼の仕事は、ここでは特に意味がある。外国の土地で、私たちは部外者だ。
通りの角を曲がった時、食材の屋台が並んでいた。乾燥させた果物、漬物、穀物、豆。並び方が独特だ。果物の隣に穀物があって、その隣に漬物。王都の市場とは配置の論理が違う。
足が止まった。
乾燥イチジクの箱の隣に、小さな陶器の壺が並んでいる。壺の蓋に、花の模様が描かれている。その花の形。丸い花弁が五枚。茎の描き方。
母のレシピ帳にあったのと同じ花だ。
母のレシピ帳は、子供の頃に台所で見つけた。革の表紙に、母の字で料理の覚え書きが並んでいた。その中に、この花の挿絵があった。「ロストリアの砂漠百合」と添え書きがあった。当時は、遠い国の花だとしか思わなかった。
「リゼロッテ様?」
ナディアが振り返った。私が立ち止まっていることに気づいたのだろう。
「この壺の花。砂漠百合ですか」
ナディアの表情が、一瞬だけ動いた。すぐに戻ったが、驚いていた。私がこの花の名前を知っていることが、予想外だったのだろう。
「ええ。この地方の自生種です。陶器の意匠によく使われます」
「母のレシピ帳に、この花の絵がありました」
ナディアは数秒、黙った。それから、慎重に言葉を選んだ。
「お母様は——ロストリアにいらしたことがあるのですか」
「分かりません。でも、この花を知っていたのは確かです」
市場の喧騒が、二人の間を流れている。売り子の声、荷車の車輪、子供の笑い声。ナディアの目の奥で、何かが計算されている。情報を出すか出さないかの判断。私の母のことを知っているのか、知らないのか。知っていても今は出さないと決めたのかもしれない。微笑みを戻して、先を歩き始めた。
壺を一つ買った。蓋の砂漠百合を指でなぞる。陶器の手触りは滑らかで、少し温かい。日差しを吸った土の温度。母がこの花を知っていた理由。それは市場では買えない。
ルーカスが隣に来た。私の手の中の壺を見て、何も言わなかった。ただ少しだけ歩調を緩めた。私が立ち止まりたい時に、止まれるように。
宿舎に戻る道で、日差しが首筋を焼いた。マリアが日除け布を差し出してくれた。布の影に入ると、一瞬で涼しくなる。この土地では、光と影の間に明確な境界線がある。曖昧な温度がない。ここか、あちらか。




