ロストリアの風
砂の国は、光から始まった。
国境を越えて半日。馬車の幌の隙間から見える景色は、黄金色の砂丘と、どこまでも高い空だった。空気が乾いて、肌が引き締まる感覚がある。唇の端がかすかに割れた。マリアがすぐに軟膏を差し出した。
「塗ってください。砂漠の空気は、王都の三倍乾燥しています」
軟膏を唇に塗ると、ミントの冷たさが走った。その直後に、日差しが窓から差し込んで、首筋が焼けるように熱くなった。寒暖の差が激しい。影に入れば涼しく、日に当たれば焼ける。この土地は、身体に嘘をつかせない。
ロストリアの首都ザハラに着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
街は白い。壁も、屋根も、道も、すべてが白い石灰で塗られている。日差しを反射して、目が痛い。狭い路地の間を、色とりどりの布が渡されている。日除けだろう。布の影が地面に模様を作って、歩くたびに色が変わる。
匂いが濃い。香辛料と、焼いた肉と、花の香油と、埃。全部が混ざり合って、一つの匂いになっている。王都の庭の、花と草と土の匂いとは全く違う。ここの匂いは、もっと複雑で、もっと直接的だ。
馬車が止まった。白い壁の建物の前。門には、ロストリア王家の紋章が彫られている。赤い石で縁取られた太陽の意匠。ブランシュ家の紋章とは違うが、渦巻きの構造は似ている。
門が開いて、一人の女が出てきた。
三十代後半。褐色の肌に、深い茶色の目。黒い髪を後ろで束ねて、白い亜麻布の服を着ている。胸元に銀の徽章。遺跡調査官の印だろう。
「リゼロッテ・ブランシュ殿とお見受けします。ナディア・サファールです。遺跡調査の窓口をしております」
声は落ち着いている。丁寧だが、温かくはない。情報は選んで出す。セレンの書いた通りだ。
「お会いできて嬉しいです。遠路ありがとうございます」
礼を返しながら、ナディアの目を見た。笑みの奥に、計量する視線がある。私が何を知っていて、何を知らないかを測っている。
「長旅でお疲れでしょう。まず宿舎にご案内します。遺跡のご案内は明日以降で」
「ありがとうございます」
宿舎に向かう途中、街の中を歩いた。路地を曲がるたびに、匂いが変わる。焼きたてのパンの匂い。次の角では、煮込んだ豆と香辛料。その次は、花の香油。そして突然、砂の匂い。風が街の中まで砂を運んでくる。
足元の石畳が、王都のものとは材質が違う。砂岩だ。表面がざらつく。靴の底を通じて、砂の感触が伝わってくる。この土地は、どこを歩いても砂がいる。
ペンダントが首元で揺れた。紋章の金属が日差しに熱されて、肌に触れると温かい。いつもは冷たい金属が、ここでは体温より高い。
ナディアが前を歩いている。彼女の歩幅は正確で、無駄がない。この街を知り尽くしている足取りだ。角を曲がる時だけ、こちらを振り返った。私がついてきているかの確認。案内しながらも、情報は一つも漏らさない。
宿舎の部屋に入ると、マリアがすぐに窓を開けた。乾いた風が入ってきて、部屋の空気が動く。風の中に、かすかに花の匂いが混じっていた。知らない花。でもどこかで嗅いだことがある。
記憶の底で、何かが動いた。母の部屋の匂い。子供の頃、母の部屋に入ると、似た匂いがしていた。花の香油。あれは、ロストリアの花だったのかもしれない。
「リゼロッテ様?」
マリアの声で我に返った。窓際に立ったまま、風を受けていたらしい。髪が額に張り付いている。汗ではない。乾いた風が吹きつけた砂の微粒子だ。指で額を拭うと、ざらついた感触が残った。
「何でもないわ。少し、懐かしい匂いがしただけ」
マリアは首を傾げた。私も、自分で言った言葉の意味がまだ分からなかった。
ルーカスが荷物を運び入れてきた。私の鞄とマリアの茶箱。重い方を片手で持っている。汗が額に浮いているが、表情は変わらない。
「ナディアとかいう人、ずいぶん観察してたな」
「気づいていたの」
「仕事だからな。人の視線は見る」
護衛の目だ。ナディアの視線が私に向いていた間、ルーカスはナディアの視線を見ていた。そういう役割分担が、自然にできている。
荷物を解きながら、ペンダントを手のひらに置いた。日差しに熱された金属が、まだ温かい。この土地の熱を吸っている。母のペンダントが、母の知っていた土地の温度を帯びている。
既視感。この土地には来たことがない。でも身体のどこかが、知っている、と言っている。母の記憶か。紋章に残された何かか。分からない。分からないが、ここに来たことは正しかった。
窓の外で、夕日がザハラの白い壁を橙に染めていた。




