国境の町
国境の町ダリアは、砂と石の匂いがした。
馬車から降りた瞬間、空気の質が変わったと分かった。王都の湿った緑の匂いではない。乾いて、硬くて、どこか甘い。香辛料の匂いだ。街道の両側に並ぶ屋台から、見たことのない色の粉が風に舞っている。黄色、赤、茶色。鼻の奥が少しひりつく。
宿は、ルーカスが事前に手配していた。石造りの二階建てで、壁が厚い。中に入ると、外の熱気が嘘のように涼しかった。窓は小さく、光が細く差し込んでいる。砂漠寄りの建築だ。外の熱を遮り、中の冷気を逃がさない造りになっている。壁に手を当てると、石のひんやりとした手触りが心地よかった。
「検問は明朝。許可書を見せれば通れる」
ルーカスが宿の主人と話してきた情報を簡潔に伝えた。
「ロストリアへの旅人は多いのですか」
「最近は商人が増えてる。遺跡の調査で、学者も何人か通ったと」
遺跡の調査。セレンもこの道を通ったのだろう。あの灰色の目の少女が、この乾いた空気の中を歩いていく姿を想像した。フードを深く被って、誰とも目を合わせず、まっすぐに目的地へ向かう。
マリアが部屋に茶器を並べ始めた。宿の水を使って、試しにカモミールを淹れる。一口飲んで、眉を寄せた。
「水が違いますね。味が硬い」
確かに、いつもの甘さが出ていない。水に含まれるミネラルが違うのだろう。マリアは少し考えてから、持ってきたミントの葉を加えた。もう一度淹れ直す。今度は、硬さが消えて、爽やかな後味が残った。
「これなら大丈夫です」
マリアの適応力は、茶葉の選び方に出る。環境が変わっても、まず味を整えるところから入る。生活の基盤を先に作る人だ。この人がいるから、どこにいても朝が朝になる。
夕食は宿の食堂で取った。食堂は天井が低く、蝋燭の光が壁に近い。テーブルの木は使い込まれて角が丸い。テーブルに並んだのは、見慣れない料理だった。平たいパンに、豆の煮込みを乗せて食べる。香辛料が効いていて、舌がじんわりと熱くなる。肉は羊だった。独特の匂いがあるが、不快ではない。むしろ、この土地の空気に合っている。
ルーカスは黙々と食べた。好みがあるのかないのか分からない。出されたものを順番に片付けていく。皿を空にする速度だけが、やたらと正確だ。マリアは一口ずつ確かめるように食べていた。料理を分析しているのだ。使われている香辛料を舌で特定している。
「クミンと、コリアンダーと……これは何かしら。初めての味です」
「宿の人に聞いてみれば」
マリアは頷いて、後で厨房に聞きに行った。戻ってきた時、小さな紙包みを持っていた。香辛料のサンプルを分けてもらったらしい。この人の情報収集は、厨房から始まる。
食後、部屋の窓から外を見た。月はまだ細いが、空が暗いから星がよく見える。王都では見えなかった星が、ここでは無数に散らばっている。空気が乾いて澄んでいるからだ。
ペンダントを手のひらに乗せた。明日、国境を越える。その先はロストリアの領土だ。外国に行くのは初めてだった。婚約していた頃は、外交の随行で行く予定があった。それはもうない。今は自分の足で、自分の理由で行く。
指先で紋章をなぞった。渦巻きの中心。六本の放射線。母の紋章。この模様が、砂漠の石門にもある。明後日には、実物を見られるかもしれない。
窓の外で、犬が一声だけ吠えた。それから静かになった。風が、香辛料の匂いを運んできた。甘くて、少し苦い。知らない土地の夜の匂い。
マリアがドアをノックした。「おやすみのお茶をお持ちしました」
カモミールにミントを足した茶だった。さっき試した配合の本番だろう。一口飲む。水の硬さが消えて、柔らかい甘さとミントの清涼感が残る。マリアは半日で、この土地の水を手なずけた。
「おいしい。ありがとう」
「明日からはもっと上手く淹れられると思います。水の癖が分かりましたから」
マリアが微笑んで部屋を出ていった。足音が廊下を遠ざかる。
ルーカスが隣の部屋にいる気配がした。壁を挟んで、ごく小さな物音。剣の手入れをしているのだろう。金属と布が擦れる、かすかな音。いつもと同じ音。どこにいても変わらない。離宮のテラスでも、街道の宿でも、国境の町でも。
そのことが、知らない町の夜に、確かな重さを置いていた。明日、国境を越える。その先にある砂漠を想像した。砂の匂い。乾いた空気。知らない言葉。知らない食べ物。怖いとは思わない。でも、身体が少しだけ緊張している。掌を開いて、閉じた。指先に力が入る。




