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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
2章 半分の力で

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留守の段取り

出発前夜、離宮の居間に四人が集まった。


テーブルの上には地図と、エルヴィラがまとめた紋章学の資料束と、マリアが並べた旅支度の一覧がある。蝋燭の光が紙面を黄色く染めている。窓の外はもう暗い。虫の声だけが、遠くで細く鳴っている。


「エルヴィラは残る方がいいと思います」


最初に口を開いたのは私だった。エルヴィラが顔を上げた。不満そうな目をしている。


「結界の監視と、フリードリヒ陛下への連絡を維持できる人が必要です。あなたが一番適任です」


「それは分かっています。ただ、紋章の現物を見る機会を——」


「資料は持っていきます。発見があれば報告します。エルヴィラの分析力は、ここにいた方が活きます」


エルヴィラは唇を噛んだ。反論したいのだろう。だが理屈で言えば正しいと分かっている。それが余計に悔しいのだ。この人は理屈で負けると、感情の行き場がなくなる。


「分かりました。ただ、紋章のスケッチは必ず送ってください。写本ではなく、実寸のスケッチを。陰影の角度が分析に要ります」


「約束します」


マリアが旅支度の一覧を広げた。衣服、日用品、食料、茶葉。一覧の横に、マリアの丁寧な字で注記が添えてある。砂漠用の日除け布、乾燥肌用の軟膏、水筒の予備、携帯用の茶器一式。細かい。この人はいつも、私が気づく前に必要なものを揃えている。一覧の最後に「ペンダント用の柔らかい布」と書いてあった。紋章を拭くためだろう。そこまで見ている。


「茶葉は三種類持っていきます。カモミール、レモングラス、それから南方の商人から仕入れた乾燥ミントです。砂漠の水は硬いと聞きましたので、ミントで臭みを消せるかと」


「マリア。あなたも残ってほしいのですが」


マリアの手が止まった。一覧を持った指が、わずかに白くなった。一瞬だけ目が揺れたが、すぐに戻った。


「……リゼロッテ様」


「エルヴィラ一人では、離宮の管理が回りません。それに、フリードリヒ陛下との連絡にも——」


「いいえ。私はリゼロッテ様のお側に参ります」


声は柔らかい。しかし揺るがない。マリアが声を低くする時は、決定事項を伝える時だ。


「砂漠でも紅茶は淹れます。食事も整えます。ルーカス殿お一人では、リゼロッテ様の生活が乱れます」


「おい」


ルーカスが口を挟んだ。マリアは無視した。


「離宮の管理は、エルヴィラ様と執事で十分です。私の仕事はここにはありません。リゼロッテ様がいらっしゃる場所が、私の持ち場です」


反論の余地がなかった。マリアの目は静かだったが、奥に火がある。この人を説得するのは、王宮の使者を追い返すより難しい。


「……分かりました。一緒に来てください」


マリアが微笑んだ。穏やかで温かい、いつもの笑顔。それから、一覧表に素早く追記を始めた。人数が増えた分の食料計算をしているのだろう。鉛筆が紙の上を走る音。こういう時のマリアは、誰よりも実務的だ。


ルーカスが地図を指差した。「国境までの安全な経路は二つ。北回りは遠いが検問が一つ。南回りは近いが、検問が三つある」


「北回りで。検問が少ない方がいい。王宮の目を減らせます」


「そうだな」


ルーカスは地図に指で線を引いた。爪の先が、国境の町を押さえる。「ここで一泊。馬を替える。その先はロストリアの道に入る。砂漠に入ると水場が限られるから、国境の町で水を補充する」


指が地図の上をさらに南へ動く。ロストリアの首都ザハラ。遺跡群はその近郊にある。ルーカスの指先は正確だ。地図を読み慣れている。軍にいた頃の経験が、こういう時に出る。


エルヴィラがノートを取り出して、紋章資料の最終版を確認し始めた。分厚い束の端を親指で弾いて、ページ番号を確かめている。


「最後に一つ。王宮からの追加の使者が来た場合は——」


「私の権限で断ります。理由は『ブランシュ家の私事に王宮は介入できない』で通します。フリードリヒ陛下の書簡を盾にします」


エルヴィラの声には、既に戦闘態勢の硬さがあった。この人に任せておけば大丈夫だろう。理屈の壁は厚い。


四人の打ち合わせが終わった時、蝋燭は半分まで減っていた。溶けた蝋の甘い匂いが部屋に漂っている。マリアが紅茶のおかわりを配った。温かい液体が胃に落ちて、身体の芯がほどける。


明日、ここを発つ。母の紋章を追って、砂漠へ。


窓の外の月は細くて、薄い雲に隠れたり現れたりしていた。月明かりの中で、庭の花がかすかに揺れていた。

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