決断の朝
三日、考えた。
朝はテラスで紅茶を飲み、エルヴィラの調査報告を聞き、午後は庭を歩いた。ルーカスは距離を変えず、マリアは茶葉を変えなかった。ペンダントは首に掛けたまま、一度も外さなかった。夜、寝る前にだけ外して、枕元のランプの光で紋章を眺めた。渦巻きの影が天井に映って、ゆっくり回っているように見えた。
四日目の朝、フリードリヒからの返書が届いた。
『ロストリアへの渡航許可は、外交慣例の範囲で出せる。公的理由としては「ブランシュ家の家伝調査」が通る。ただし王宮の目があるため、護衛は信頼できる者に限ること。なお、アレクシスの側近が別件でロストリア方面に動いているという情報がある。直接の妨害ではないと見ているが、注意されたし。フリードリヒ』
アレクシス。その名前を読んだ瞬間、胸の奥で何かが硬くなった。痛みではない。古い傷跡が寒さに反応するような、鈍い収縮。婚約破棄から半年。あの人はまだ、何かを取り戻せると思っているのだろうか。取り戻すものなど何もない。もともと、対等に差し出し合ったものはなかったのだから。
「アレクシス殿下の側近が動いている、というのは」
エルヴィラが書簡を覗き込んだ。眉が寄る。ペンを取り出して、余白に何か書き込もうとして、やめた。自分のノートに切り替える。
「妨害の可能性は低いと思います。むしろ——未練ですね。あるいは、リゼロッテ殿の動向を把握しておきたい。王太子としてではなく、個人として。側近に動かせるということは、公務の名目で渡航費を出している。私的な目的を公費に紛れ込ませている」
「どちらにしても、私の判断に影響はありません」
自分の声が思ったより落ち着いていた。半年前なら、アレクシスの名前だけで声が揺れたかもしれない。今は揺れない。失ったものの重さは分かっている。でも、それは戻すものではない。
ルーカスがテラスの端でパンを食べていた。フリードリヒの書簡の内容は聞こえていたはずだ。アレクシスの名前が出た時、パンを噛む速度が一瞬だけ落ちた。気のせいかもしれない。次の瞬間にはいつもの速度に戻っている。彼はそういう人だ。感情が出る場所は、常人とは違う。
「ルーカス」
「何だ」
「ロストリアに行こうと思います」
パンを飲み込む音。カップの茶で流し込んで、こちらを見た。目は平坦だった。告白の翌朝と同じ目。重大なことを聞いた時の、あの無表情。
「そうか。いつ出る」
「できるだけ早く。フリードリヒ陛下の許可が下りるなら、三日以内に」
「護衛は」
「あなたに頼みたいのですが」
「護衛として、か」
言葉の間に、あの夜の記憶が挟まった。好きだ。返事はまだしていない。護衛として、という枠組みが、今の二人の距離に合っているのか分からない。枠組みがなくても、この人は来るだろう。でも枠組みがある方が、周囲に説明しやすい。
「隣に立つ人として。護衛の肩書は便利だから使いますけれど」
ルーカスの目が、一瞬だけ細くなった。笑ったのか、眩しかったのか、判別がつかない。口元は動いていない。目だけが、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「分かった。荷物をまとめる」
立ち上がって、テラスを出ていった。パンの皿はカップの隣に、きちんと重ねてあった。食べ終わった後の片付けが正確なのは、軍にいた頃の癖だろう。
エルヴィラが私の顔を見ていた。何か言いたそうだったが、飲み込んだらしい。代わりにノートを開いた。
「紋章の文献で、出発前にまとめておくべきものがあります。三日で仕上げます。ロストリアの遺跡に関する古い論文が二本、図書館にあるはずです」
「お願いします」
エルヴィラは頷いて、すぐにノートに書き込み始めた。ペンが走る音が、テラスの空気に混じる。この人は動き出すと早い。感情よりも手が先に動く。
マリアがテラスに新しい茶を持ってきた。今朝はカモミールだけ。レモングラスは入っていない。いつもの味に戻っている。その安定が、今の私には正しかった。甘い草原の香りが鼻を通って、胸の奥に落ちていく。
窓の外に目をやると、庭の薔薇が朝日に開いていた。花弁の縁に露が光っている。ここを離れる。十日の旅路の先に、砂漠がある。母の紋章がある。答えがあるかは分からない。でも、ここにいても答えは来ない。
確かめに行く。自分の足で。自分の判断で。誰かに決めてもらうのではなく。
ペンダントに触れた。金属は体温に馴染んでいた。もう冷たくない。




