王宮の影
翌朝、テラスで紅茶を飲んでいると、門番が駆けてきた。
「王宮からの使者です。二名。公式の書状を携えていると」
マリアが私の顔を見た。紅茶のカップを置く間もなく、使者はもう玄関広間に通されていた。フリードリヒ陛下の名代ではない。王宮本体からの直接派遣だ。この離宮に王宮の使者が来るのは、婚約破棄の事後処理以来、初めてだった。
広間に降りると、二人の文官が揃って頭を下げた。一人は結界管理局の紋章をつけている。もう一人は外交部の腕章。どちらも三十代半ば。顔は丁寧だが、目の奥は計算している。彼らの革靴が、石畳の上できちんと揃えられている。几帳面な人間が選ばれたのだろう。几帳面な人間は、報告も正確に上げる。
「リゼロッテ・ブランシュ殿。王宮より、結界維持体制の再編に関する聴取をお願いしたく参りました」
書状を受け取った。羊皮紙の質が良い。蝋印は王家の正紋。中を開くと、結界管理局長カイル・ヴォルフハルトの署名と、外交部長の連名。質問項目が整然と並んでいる。結界の浸透率、魔力残存量、遺跡との紋章一致に関する「未確認情報」。名目は結界の現状確認だが、行間には別の意図が透けていた。
私の動向の把握。そして、ロストリア方面への移動が噂になっているかの確認。セレンの報告が漏れているのか。あるいは、別の経路で同じ情報が王宮に届いているのか。
「結界の安定化については、すでにエルヴィラ殿を通じてフリードリヒ陛下に報告しております。追加で確認すべき事項があるのでしたら、具体的にお示しください」
結界管理局側の文官が目を細めた。予想していた回答だったのだろう。外交部側が書類をめくり、指先で項目を示した。
「紋章に関しては調査の進展を——」
「紋章は私個人の家伝に属する事項です。王宮の管轄外だと認識しておりますが」
「もちろんです。ただ、ブランシュ家の紋章と王国外の遺跡に関連がある場合、外交上の配慮が必要になります。先方の国との——」
「配慮が必要かどうかは、確認した後に判断します。現時点で王宮に報告する義務のある情報は、結界の浸透率のみです。それはすでに提出済みです」
声は丁寧に保った。しかし線は引いた。二人の文官は顔を見合わせた。どちらが先に折れるかを計算している。結界管理局側が先に書類をまとめた。形式的な確認をいくつか済ませて、広間を退出した。革靴の音が遠ざかる。門の蝶番が軋んだ。
彼らが去ったあと、ルーカスが柱の陰から出てきた。腕を組んでいた。広間の端に、もう一脚の椅子がある。そこにルーカスのカップが置いてあった。茶はまだ温かそうだ。最初からいたのだろう。
「聞いてたのか」
「壁が薄い」
嘘だ。この広間の壁は石積みで、拳の幅ほどの厚さがある。壁が薄いわけがない。意図的に聞いていたのだ。護衛の仕事として。あるいは、別の理由で。
「カイルの名前があった」
「ええ。結界管理局長の権限で来ています。彼は私を兵器として運用したい人です。紋章の件も、私の魔力をどう使えるかの計算に入れているでしょう」
ルーカスは何も言わなかった。腕組みを解いて、窓際に歩いた。外を見ている。使者の馬車が門を出ていくのが見えた。砂利を踏む車輪の音が、庭を横切って消えていく。
テラスに戻ると、紅茶はすっかり冷めていた。マリアが新しいカップを持ってきてくれた。温かい液体が喉を通る。カモミールの甘さが舌の上に広がって、さっきまでの緊張が少しだけ溶ける。
「フリードリヒ陛下にも連絡を入れた方がいいかもしれません」
マリアの声は穏やかだが、判断は正確だ。私が動く前に、制度側の防壁を立てておく必要がある。王宮が直接使者を出してきたということは、フリードリヒの防御線を迂回したということだ。
午後、フリードリヒ宛に書簡を書いた。王宮からの使者の件、紋章の調査に個人的に関心があること、移動の可能性。すべて事実だけを書いた。感情は入れない。制度の言葉で、制度の人間に伝える。ペンの先が羊皮紙を走る。インクが乾くのを待つ間、窓の外を見た。夕日が庭の薔薇を赤く染めている。
書簡を封じた時、ペンダントが首元で揺れた。紋章は、私だけのものだ。母から受け取って、私が身につけている。誰にも渡す義務はない。カイルにも。王宮にも。
けれど、その紋章が何を意味するのかは、ここにいても分からない。分からないまま、王宮の影だけが近づいてくる。




