手紙の紋章
テラスの朝食を終えた頃、マリアが手紙を持ってきた。
「セレンさんからです。昨夜の便で届いたようで」
封蝋は灰色。セレンの印だ。爪で封を切ると、便箋は一枚きりだった。字は小さく、行間は詰まっている。情報を最小の紙面に圧縮する癖は相変わらずだ。余白には地図の略図が走り書きされている。
『ロストリア南部の遺跡群を調査した。第三石門にペンダントと同一の紋章を確認。ブランシュ家の紋章が王国外にある理由は不明。現地調査官ナディア・サファールが窓口。彼女は礼儀正しいが、情報は選んで出す。移動するなら早い方がいい。セレン』
手紙を置いて、ペンダントを外した。テーブルの上に、手紙と並べる。紋章の凹凸が、テラスの朝日に細い影を落とす。渦巻きの中心から放射状に伸びる六本の線。ブランシュ家の女系に伝わる紋章。母から受け取った日のことは覚えている。冬の朝で、母の指先は冷たかった。意味は、と聞いた。母は微笑んで、いつか話す、と言った。いつかは来なかった。
エルヴィラを呼んだ。彼女は分厚いノートを三冊抱えてやってきて、手紙を読むなり目を輝かせた。
「同一紋章——王国外に、ですか。これは面白い」
ペンダントをルーペ越しに覗き込む。ノートを開いて、紋章学の図版と比較し始めた。指先が図版の上を走る。ページをめくる速度が上がっている。早口になっている。興味がある時の癖だ。周囲が見えなくなる。
「渦巻き紋は各地にありますが、この六本の放射線は特殊です。ガルディア王国の紋章学文献には記載がない。つまり——」
「王国由来ではない可能性がある」
「ええ。もともとロストリア側の紋章で、それがブランシュ家に渡った。あるいは両方に共通する、もっと古い起源がある。どちらにしても、これは王国の公式記録から意図的に除外された情報です」
エルヴィラの声に興奮が滲む。だが私の頭は別のことを考えていた。母は、この紋章の意味を知っていたのだろうか。知っていて、黙っていたのだろうか。いつか話す、の「いつか」は、私がどうなった時を想定していたのか。
ルーカスがテラスに戻ってきた。手にはパンの切れ端と、マリアが淹れたであろう茶のカップ。パンを噛みちぎりながら、テーブルの上を一瞥する。
「セレンから」
「読んで」
手紙を渡すと、ルーカスは立ったまま目を通した。表情は変わらない。読み終えると、手紙をテーブルに戻し、パンの最後のひと切れを口に入れた。咀嚼しながら、茶を一口。飲み込んでから。
「行くのか」
「まだ決めていません」
「そうか」
それだけ言って、カップをマリアに返した。護衛としての判断も、行くなという制止も、危ないという警告も言わない。ただ事実を確認しただけ。結論が出たら動く。それがこの人のやり方だ。
エルヴィラが紋章の図版を並べ始めた。テーブルの上が紙で埋まっていく。マリアが黙ってカップを別の場所に移す。
窓の向こうで、庭師が薔薇の枝を剪定していた。鋏の音が、朝の静けさに小さく響く。ペンダントを手に取り、紋章を親指でなぞった。金属の冷たさが、指先からゆっくり体温に変わっていく。
ロストリアの遺跡に、同じ紋章がある。母の形見と同じ模様が、砂漠の石門に刻まれている。それが何を意味するのか、ここにいても分からない。分からないまま、考え続けることはできる。でも確かめられる場所がある。
「エルヴィラ、ロストリアまでの距離は」
「馬車で十日ほどかと。国境を越える許可が要りますが、フリードリヒ陛下に頼めば——」
「まだ決めていない、と言ったばかりでしょう」
自分の声が、少し硬かった。エルヴィラが口を閉じる。ルーカスがこちらを見たが、何も言わなかった。視線だけが、数秒こちらにあって、それから窓の外に戻った。
テーブルの上には、エルヴィラが広げた紋章学の図版と、セレンの手紙と、冷めた紅茶のカップが並んでいる。朝の静けさはもう消えて、情報と判断の重さが空気を変えていた。庭師の鋏の音だけが、さっきと同じテンポで続いている。
紅茶のカップに残った最後の一口を飲み干した。ぬるい。レモングラスの香りはもう消えている。味の残らなくなった液体が、喉の奥に落ちていく。ペンダントを首に戻して、鎖を留めた。金属が鎖骨に触れる。冷たい。それが体温に変わるまでの数秒を、待った。




