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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
2章 半分の力で

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告白の翌朝

朝の光が窓枠を白く染めていた。


目を開けた瞬間、昨夜の記憶が胸の底から浮き上がってきた。ルーカスの声。短い言葉。好きだ、と言った顔は、驚くほど平坦だった。重大なことほど平坦に言う。あの癖は、告白でも変わらなかった。返事を求めなかったのも、あの人らしい。言うだけ言って、黙って立っていた。月明かりが石畳を白く染めていて、二人の影だけがやたらに長かった。


枕の冷たさが頬に心地いい。呼吸を整えて、天井の木目を数える。三つ目まで数えたところで、廊下をマリアの足音が通り過ぎた。軽くて規則正しい、いつもの足音。この足音を聞くと、朝が始まったと分かる。身体の時計が、もうそうなっている。


「おはようございます、リゼロッテ様。今朝はレモングラスを少し混ぜてみました」


扉の向こうから声がかかる。返事をして、ゆっくり上体を起こした。シーツの冷たさが腕を滑り落ちる。窓の外では庭師が水を撒いていて、土の匂いが風に乗って入ってくる。水を吸った土の、やわらかい重さ。鼻の奥が少し緩む。まだ夏前なのに、朝の空気はもう温かい。


身支度を整えてテラスに降りると、テーブルの上にマリアが朝食を並べ終えていた。焼きたてのパンが籠に入っていて、バターの皿が隣にある。紅茶のカップから湯気が立っている。白磁の縁に、レモングラスの緑がかった蒸気が揺れる。一口含むと、鋭い爽やかさがカモミールの甘さを引き締めていた。舌の上で、二つの香りが交差する。いつもの朝の味に、ほんの少しだけ新しい要素。マリアはそういう距離の取り方をする人だ。何も聞かず、味だけを変える。


「おいしいわ」


「ありがとうございます。砂漠の商人が持ってきた茶葉だそうで、少し癖がありますけれど、朝にはよく合うかと思いまして」


砂漠。その言葉に、指先が無意識にペンダントへ伸びた。鎖骨の下で、金属がひんやりと肌に触れている。紋章の凹凸を指の腹でなぞる。渦巻きの中心から六本の放射線。母の形見。子供の頃は太陽の絵だと思っていた。六歳の時に母に聞いたら、太陽ではないわ、と笑った。じゃあ何、と食い下がったら、いつか教えてあげる、と言って髪を撫でた。あの時の母の指は温かかった。紋章の本当の意味は、母が教える前に失われた。


「マリア。ルーカスは」


「裏庭で剣の手入れをされています。いつも通りです」


いつも通り。その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。態度が変わっていないということ。好きだと言った翌朝に、急に優しくなったり、距離を詰めてきたりしないということ。それが今の私には、どんな甘い言葉よりも正しい温度に感じる。


パンを一切れちぎって、バターを塗った。表面がさくりと割れて、中から湯気が立つ。カップを持ったまま、裏庭に回った。ルーカスが石段に腰掛けて刃を布で拭いていた。朝日が刃に反射して、白い線が地面に走る。こちらに気づいて顔を上げた。表情は変わらない。昨夜と同じ目。同じ距離。世界で一番重いことを言った翌朝に、この人はパンの食べ残しを膝に置いて、剣の手入れをしている。


「朝だぞ」


「ええ、朝です」


それだけだった。ルーカスは視線を刃に戻し、布を動かす。金属がかすかに鳴る。風が吹いて、庭の花が揺れた。白い花弁が一枚、刃の上に落ちる。ルーカスはそれを指で摘まんで、風に放った。花弁が宙に浮いて、庭の向こうへ消えていく。


私は隣の石段に腰を下ろした。石の冷たさが太ももに伝わる。カップの残りを飲む。ぬるくなった茶が、喉を滑り落ちていく。二人の間に会話はない。鳥の声と、遠くの鍛冶屋の槌音と、布が金属を擦る音だけが聞こえる。


「昨夜の返事は」


「聞いてない」


嘘だ。聞いている。でも、催促はしない。


「まだ考えています」


「そうか」


ルーカスは布を畳んで、剣を鞘に戻した。立ち上がる気配はない。急かさない。催促しない。隣にいるだけ。朝の光が、二人の影を石畳に長く引いた。影の先が、かろうじて触れ合っている。


マリアがテラスから声をかけた。「エルヴィラ様がお見えです。お手紙も届いているようです」


手紙。セレンからかもしれない。立ち上がる前に、もう一度だけ隣を見た。ルーカスは鞘の留め具を調整していた。指先の動きは正確で、迷いがない。この人の手は、剣を握る時も、パンをちぎる時も、同じ力加減をしている。


「ルーカス」


「何だ」


「何でもありません」


胸の奥が、痛むのでも苦しいのでもなく、ただ温い。紅茶の余韻に似ている。これが何なのか、まだ名前をつけたくない。名前をつけると、形が決まってしまう。形が決まると、失う時の輪郭も決まる。まだ早い。


テラスへ戻る途中、ペンダントが朝日を受けて、小さく光った。紋章の中心にある渦巻きの模様が、一瞬、砂塵のように見えた。立ち止まって、光の加減を確かめる。ただの反射。けれど指先に残る金属の温度は、もう体温に馴染んでいた。


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