千依と竜也5
結局、私の覚悟と心の整理がつくまでには2年半ほどかかった。
もう少し早く言いたかったのに、やっぱり私はのんびりしか進めないらしい。
けれどタツは「思ったより早かった」なんて笑っていたから、少しはペースアップしているのかもしれない。
「じゃ、行くか千依」
「うん」
つい1カ月前、タツに私は2年半前にもらったプロポーズの返事をした。
その後、お互いの家族にその挨拶をして、お互いの事務所に報告をして、萌ちゃんや真夏ちゃんといった大事な人達に報告してと慌ただしく時間をすごして、やっと落ち着いたのが今日。
正式に結婚を発表するのは明日になっている。
けれど、その前に私達はどうしてもそのことを伝えたい人達がいた。
だから、こうしてここにいる。
「いらっしゃ…って、まあタツじゃないの!チエちゃんも!!久しぶりだねえ!」
暖簾をくぐった先には昔と変わらず明るい笑みで料理を運ぶ奥さんの姿。
奥の方で「おー」と挨拶してくれたのは、オーナーさんだ。
そう、来たかったのはタツの恩人達がいるこの居酒屋。
個人個人ではたまに来ていたけれど、2人揃っては本当に久しぶり。
仕事が忙しくなると、なかなかここまで来れないことも多々あった。
けれど、タツはずっと挨拶に行きたいと言っていたから日程を合わせたのだ。
私もここではたくさんのことがあったから、2人にちゃんとお礼と報告がしたかった。
「え!?な、竜也さんじゃん!ちーちゃんも!なになに、どうしたの!」
「…芳樹?お前、ちょっと老けた?」
「うわ、ちょ、竜也さんだって同じだけ歳取って…るはずなのに、何で変わんないんだよ。しょうがないだろ、30代越えるとちゃらちゃらできないんだって」
ちょうどそこには前園さんもいて、相変わらず賑やかな店内。
ここに来ると、昔に戻ったような気分になれる。
ホッと息をつく私。
けれど当然前とは違うこともあるわけで。
「え、ちょっとまさか、ぼたんのタツ!?と、ちぃじゃん!2ショット初めて見た!噂はマジなのか!」
「うわあああ、芸能人!芸能人が目の前に!!」
「ささささ、サイン下さい!しゃ、しゃしん…っ」
「前園さん知り合いなんですか!?うそだろ、何という奇跡!!おれちぃの大ファンで!」
私達の正体を知ると、店内の視線が一気に集中する。
一瞬の内に大騒ぎで。
「おー、お前らも見事に出世したな。拗ねていじけて荒れてた時が嘘みたいだ」
「…ケンさん、話を脚色しない。荒れてたけど拗ねたりいじけたりはしてないだろ」
「そうだったか?そういやシュンも前来たけどな、お前らちゃんとメシ食ってんのか?寝る時間も惜しいとか言ってたぞ」
「あー…ケンさん今度シュンきたら怒ってやってよ。あいつ本当のめりこむと他のこと忘れるから」
「お前も人のこと言えねえだろが」
視線は相変わらず強く感じるけれど何とか落ち着いてカウンターに座ると、昔のようにオーナーさんと話すタツ。久しぶりの会話を楽しそうにする姿に心が温かくなる。
「それにしても、チエちゃん綺麗になったねえ」
「あ、その奥さんも変わらないです!ほっとします」
「あら、人を褒めるのも上手になっちゃって!やだね、タツには勿体ないわ」
懐かしさと、時間の流れを感じて思わず私まで頬がゆるんでいた。
そうしてその空気にうっかり流されて本来の目的を忘れかけた頃に、タツが話を切り出す。
「でさ、今日はちょっと報告があってきたんだけど」
「あ?」
「どうしたんだい、タツ」
「うん。実は俺達結婚することになって」
報告するにしてはずいぶんサラリと言うタツ。
そして、その単語を言った後お店の中がシンと静まりかえった。
「おう、そうか。おめでとさん」
「あら、めでたいね!お赤飯たこうかね」
そんな中いつもと変わらない口調で返事をくれたのは、やっぱりオーナーさん夫婦だ。
そして、そんな言葉の後にまた地鳴りのような声が店内に響く。
「…あの、人の話盗み聞きは良くないよ、皆さん?」
タツが苦笑しながら振り向いてそう言う。
けれど誰も話なんて聞いていない。
「芸能人になった時点である程度プライバシーはないと思えっつの。知ってんだろ、いい加減」
「いや、そうなんだけどさ。俺にも照れってものはあってな」
「30過ぎの男が照れても何にも可愛くないぞ、アホ」
「……相変わらず口悪いな、ケンさん。地味に傷つくんだけど」
ほのかに顔が赤いタツはどうやら本気で照れているらしい。
何だかほほえましい。
そんな私の様子を見破っているらしいタツが横から面白くなさそうに私の頬をつねってくる。
「ごめん」と謝ればぐしゃぐしゃと頭を撫でてくれた。
なぜかその瞬間うしろから「キャーッ!」と黄色い声が飛んでいる。
「おい、いちゃつくなら人目のないとこ行け」
「いちゃついてないって。それよりも」
「あ?」
「本当、いろいろありがとうなケンさん。雅さんも。この場所がなかったら俺はこうしてここまで来れなかった。ちゃんと報告と礼が言いたかったんだよ」
「わ、私も。ここでたくさん助けてもらったから。だから、ありがとうございました!」
「…良いっつの、いまさら」
「珍しい、ケンさんも照れんだな」
「うるせえ、師匠をからかうなアホ弟子。…ま、幸せにやれや」
「タツ、チエちゃん。子供でも生まれたらまた顔見せに来なさい。おばさん達それ楽しみに待ってるから!」
変わらない場所と、変わっていくモノと、それを強く実感する。
ここはタツにとっての始まりの場所で、私にとってタツとの思い出の詰まった場所。
ここにいると本当に色んな事を思い出す。
ぽんこつで何もできなかった私。
苦しみもがいていたタツ。
今こうして同じ場所で、全く違う環境に囲まれていると、胸にくるものがある。
そうしてふと目に入ったのは、相変わらず店の隅っこに置かれたアップライトのピアノで。
「オーナーさん、もう一度弾かせてもらっても良いですか?」
懐かしくなってそんなことを言う。
オーナーさんは、にやりと笑って「演奏代はやらねえぞ」と言いながら許可してくれた。
タツの顔を見れば、ふっと同じ様に懐かしそうな顔をして頷いている。
笑い返してピアノに向かえば、年季がたって古くはなっているものの埃もなく大事に管理されてきたのが分かる。
ポンと鍵盤をひとつ押せば、ボケた音は鳴らなかった。
前と違ってちゃんと調律されたピアノに少し苦笑いしながら指を鍵盤に置く。
気付けばピアノを取り囲むようにお客さん達がジッと私の方を見つめていて。
それに笑い返せるようになった自分にさらに時の流れを感じた。
そうして弾くのは、あの時はじめてタツの思いを拾った思い出の曲。
同じ様にここで弾いたあの音達。
懐かしそうに、そして愛しそうに音を追う作曲者は、机に肘をついて目を閉ざし柔らかく笑っていた。
願わくば、こんな穏やかで温かな日々を彼と続けていきたい。
そんな想いと共に、私は鍵盤を弾いた。
私はもうすぐ、ずっと憧れていた彼と家族になる。
これにて番外編含め完結とさせていただきます。
最後までお読み下さり本当にありがとうございました!




