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「それはよかったです。粉チーズとタバスコも、お好みでどうぞ」
「粉チーズとタバスコまであるんですか!?」
本当になんでもあるんだなぁ。
もちろん、絶対に必要だ。私はそれらを受け取って、さっそくナポリタンにかけた。
粉チーズの塩味とコク、若干のクセ。そして、タバスコの爽やかな辛味。甘味、酸味、塩味、苦味、辛味が混然一体となって、ああ! なんて美味しいの!
「ああ……」
優しい記憶が流れ込んできて、心の温度を上げる。
――そうだ。そうだった。はじめて食べたときも、そう思ったんだった。
「小さいころ、父が連れて行ってくれた近所の喫茶店で、このナポリタンを食べたんです。そうだった……思い出した……」
タバスコはやめたほうがいいって言う父を押し切ってかけて、目の覚めるような辛さに一瞬びっくりするも、すぐさまその虜になった。
父は驚いて、「そうか、お前は辛いものが好きか。俺と一緒だな」って笑った。
その――なんだか少し困ったような、だけどとても嬉しそうな不器用な笑顔が、すごく嬉しかったのを覚えてる。
「今、お父さん……何してるのかな……」
父とは、十歳のころから会っていない。喫茶店でナポリタンを食べたのが最後だった。きっと、それも関係してるのかもしれない。私にとって、このナポリタンが特別なのは。
数少ない――父との思い出だから。
「……お父さまとは、長く会っておられないんですか?」
蘇芳が洗い物をしながらこちらを見る。
「ええ、もう十年以上になります。父と母が離婚して以来です」
私はナポリタンを見つめて、そっと息をついた。
「父は、その……悪い人ではないのですが、お人好しがすぎて女性にだらしないところがあると言いますか……。頼られると嫌と言えない性格でして、親身になっているうちに、その……男女の仲になってしまうことが多々あったみたいで……」
「……迫られると、強く拒否できない?」
「そうなんです。そして、一度情を交わしてしまったが最後、断固として拒絶することができなくなってしまって……ずるずると関係を続けてしまう。泣かれたり、縋られると、自分がついていてあげなきゃって思ってしまうみたいで……。でもそれって、別に相手を愛しているわけじゃないんですよ。だから、相手の想いとは常にかなりの温度差があって、それがトラブルを引き起こしてしまうんです……」
当時の私はまだ幼かったから、もちろん父の気質や男女の心の機微、その関係について、まったく理解できてはいなかったけれど、それでも何度も女の人が家に怒鳴り込んできたことだけは覚えている。
そのたびに、母が泣いていたことも。父に対して激しく怒鳴っていたことも。
父の――その悪癖とも言える気質を理解できたのはもっとずっとあとになってからで、それは結婚してから表面化したわけでもなんでもなく、実はその前からずっとそうだったらしい。
「だったら、なぜ結婚なんてしたのかって思いますよね? 私もそこ、ツッコミました。でも母も若くて、そのときは父がいなくちゃ生きていけないと思っていたんだそうです。ほかの女性に盗られてしまうのも悔しい。許せない。だから、絶対に別れてやるものか。そう思ってしがみついているうちに、私ができた――」
「いわゆる、授かり婚ってやつですか」
「はい、父が数多の女たちの中から自分を選んで結婚してくれたときは天にも昇る気持ちだったそうですよ。勝ったって思ったそうです。父の愛を勝ち得たって」
私はフッと笑って――いや、嗤って、首を横に振った。
「だけど、のちに母は言ってました。そのとき一番押しが強くて、父の目から見て一緒にいてあげないと駄目になってしまいそうなのが自分だっただけなんじゃないかって……」
愛していたからではなく、一番求めてくれていたから。
そして、誰よりも不安定で、支えてあげなきゃいけないように見えたから。
悲しいことに――きっとそれは間違いではないんだと思う。
娘の私から見ても、母に対して特別愛情があるようには見えなかった。
「何度も何度も泣かされて、母は結局父との別れを決意しました」
でも、当時の私に、男女のことなんてわかるはずがない。
母から恨み言は聞いていたけれど、私は優しい父がとにかく大好きだった。
だから、母から「お父さんとお母さん、どちらについていきたい?」と訊かれたときは、迷わず「お父さんがいい」と言ってしまった。ヒステリックに怒ってばかりの母よりも、優しい父のほうがいいと思ったのだ。
ショックを受けて泣き崩れる母を見て、父は「一緒にご飯を食べに行こうか」と言って、私を連れ出した。
そして――このナポリタンを食べさせてくれた。
「ものごころついたときにはすでに父と母の間には大きな溝ができていて、だから私には家族で出掛けた思い出がないんです。母は、私を味方につけておきたかったんでしょうね。父と私が二人でなにかするのを極端に嫌ったので、父と出掛けた記憶もほとんどありません。ナポリタンを食べたのが、唯一と言ってもいいぐらいで……」
ナポリタンを食べたあと、父は「お母さんと一緒にいてあげてくれないか?」と言った。
「お父さんよりお母さんのほうが弱いから」と、「お父さんよりお母さんのほうがお前を必要としているから」と頭を下げた。
でも、「お父さんと会えなくなるのは嫌だ。お父さんといたいもん」と私がごねると、「会えなくなるわけじゃない。いつでも会える。必ず会いに行くよ」と約束してくれた。
だから私は、母と行くことを決めた。
だけどそれ以来、父とは一度も会っていない。
父が会いに来なかったのか、母が会うことを許さなかったのか、それはわからない。
ただ、私は母のもとで父への恨み言を聞いて育った。
そして成長するにつれて、決して父が優しいだけの人ではないことを知っていった。
いつしか私は、父に会いたいとは言わなくなっていた――。
「……父に対して、嫌悪感を持ったこともありました。多感な時期は、汚らわしいとまで思ったことも。でも、今は……父は父で、弱い人だったんだなって思います……」
自分の意思を貫く強さが持てなかった人。
だからこそ、人に流されるまま生きていた。
弱くて弱くて――きっと自分に自信も持てなかったのだと思う。だから、求められると拒めなかった。誰かに必要とされることが、自分の支えになっていたから。




