1-8
そんなものがあるんだと感心して――ふと現世で聞いた話を思い出す。
「そっか。彼岸の食べものを口にしたら、もう此岸には戻れないって話もありますもんね。現世と同じ食材なわけはないか。……ここは大丈夫なんですか?」
「ええ、ここはまだ彼岸の手前なので」
酒呑童子が「安心してください」と笑う。
「ここの食材も料理も、現世のそれと変わらない味がしますよ」
「そうなんですね。楽しみです」
トントントントンと小気味のいい包丁の音が響く。
しばらく黙ってその手もとを――食材が綺麗にスライスされてゆくのを見ていたけれど、私はふと顔を上げた。
「あの……よかったら、お名前を伺ってもいいですか?」
瞬間、酒呑童子がビクッと身を震わせ、顔を上げる。
緋色の双眸が驚愕に見開かれた。
「え……?」
「あ、いえ……酒呑童子って名前じゃないんじゃないかなって思ったので……ええと……その、ごめんなさい。訊いてはいけないことでしたか……?」
酒呑童子のあまりの驚きように思わず謝ると、彼は呆然としたまま首を横に振った。
「いえ、謝ることではありません。尋ねてはいけないことでもありませんし……。ただ、それを訊かれたことなんてほとんどなかったもので……驚いてしまって……」
「え? そうなんですか?」
好ましい相手に見えてるんだとしたら、なおさら訊くものじゃないの?
私はそう思ったのだけれど――どうやらそうではないらしい。
酒呑童子は包丁を置くと、驚いたとばかりに手で胸を押さえて「ええ、そうなんです。これまでにたった一度だけです」と息をついた。
「酒呑童子であったころから数えて、です。その一度だけだったものですから」
「え……?」
千年以上もの間で、一度きり――?
え? 待って。そんなことがありえるの? そりゃ、平成や令和の世と平安のそれでは全然違うと思うけれど――それでも、名前を訊かれることなんてやっぱり日常茶飯事なんじゃないの? 生活するうえで、人づきあいをしてゆくうえでは、絶対必須というか……。それなのに?
首を傾げていると、酒呑童子がなんだか切なげに――苦しげに顔を歪めて、「どうして、あなたは……そうなんでしょうね……」と小さくひとりごちる。
「え……? あの……」
「いえ、なんでもありません。あ、お湯が沸きましたね」
酒呑童子が私の視線を避けるように寸胴を見て、そのまま背を向ける。
それは戸棚からパスタを取り出すためだったんだけど――なんだかそれ以上は訊くなと言われているようで、私は慌てて口を噤んだ。
不快にさせちゃったかな? 悪いことしちゃった……。でもまさか、名前を訊くなんて、つきあいとか会話の初歩中の初歩が地雷だなんて思わないもの……。
「――蘇芳です」
しゅんと下を向いていると、ふいにそう言われる。
パッと顔を上げると、酒呑童子が私を見つめて照れくさそうに笑った。
「蘇芳と申します。敬称は必要ありませんので、そのまま蘇芳とお呼びください」
「ス、オウ? あ、髪の色の……蘇芳色のですか?」
「ええ。そこからつけていただきました。大切な……女性に」
酒呑童子――蘇芳が恥ずかしそうに、ひどく幸せそうに、目を細める。
なぜだろう? その瞬間、ドクンと心臓が嫌な音を立てた。
「大切な……人……」
「ええ、心に決めた――ただ一人の女性です」
蘇芳が寸胴鍋をかき混ぜながら、頷く。
鍋を見つめる眼差しは、誰かに想いを馳せているようで――私は慌てて下を向いた。
「っ……そう、なんですか……」
変に声が震えてしまう。胸が痛い。――え? なんで私、ショックを受けているの? 普通の会話だったでしょう? 心を痛めるような話題じゃなかったはず。
「……?」
なんだろう? なんかおかしいな。私。
首を捻りつつも、もう黙っていようと、私は蘇芳の手もとをじっと見つめた。
パスタの茹で具合を見つつ、スライスした玉ねぎとウインナーをフライパンで炒める。塩コショウをし、玉ねぎがすき通ってきたところでピーマンを加えてサッと火を通したら一旦別の皿に取り分けておく。
隣のコンロにステーキ皿の鉄板を置き、油を引いて熱する。
ケチャップ、ウスターソース、牛乳をフライパンに入れ、色鮮やかになるまで煮立たせ、砂糖、塩コショウで味を調える。
そこに具材を戻して混ぜ合わせたところで、茹で上がったパスタと少量の茹で汁を入れ、手早く絡めてゆく。
――すごい。思わず見惚れてしまうほど、手際がいい。
そして、ステーキ皿の熱した鉄板に溶き卵を流し込み、その上にできあがったパスタを盛りつけて、木のトレーの上へ載せる。
蘇芳は顔を上げると、じゅうじゅうといっているそれを私の目の前に置いた。
「ナポリタンです。どうぞお召しあがりください」
「っ……う、わぁ……!」
黄色と赤のコントラスト。白い湯気と、鉄板のじゅうじゅうという音が否応なく期待を昂らせる。
私は逸る気持ちを抑えながら、フォークをつかんだ。
フォークでくるくるとパスタを巻いて、まだ火が通り切っていない玉子に絡めて、いざ口の中へ。
「~~~~っ! これです!」
太めのモチモチ食感のパスタに、ケチャップとソースの甘みとコクと酸味、それとは別種の、玉ねぎの甘み。そして、ピーマンの若干の苦味もたまらない。ジューシーなウインナーに、絡みつく玉子のまろやかさも――ああ、手が止まらない! 美味しい!
ナポリタンを子供っぽい味だと言う人もいるけれど、子供から大人まで幅広い年齢層に愛される――それほど万人受けする味つけということだし、それはむしろすごいことで、誇るべきところだと思う。
「すごく美味しいです!」




