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勢い良く頷いて――だけどそこで口にするべき言葉を見失ってしまう。
私は思わず目を見開き、口もとを手で覆った。
「わ、私は……?」
私は――誰?
全身から一気に血の気が引く。
「う、嘘……。私……私は……?」
「あ、ご……ごめんなさい!」
何一つ思い出せない恐怖にガタガタと震え出した私を見て、男性がひどく慌てた様子で『待って』とばかりに両手を上げた。
「脅かすようなことを言って申し訳ありません。あなたはまだ大丈夫ですよ。落ち着いて。魂が肉体から離れたショックで、一時的に忘れてしまっているだけですから」
「え……?」
思わず縋るように男性を見つめてしまう。
「そ、そうなんですか……?」
「ええ。ですがら、急がなくてはいけません。帰る場所を思い出せるうちに帰らなくては。帰る場所を見失ってしまったら、最後だと思ってください。風雨に晒されただけで崩れてしまう可能性があるほど脆く傷つきやすい状態で、悪鬼やあやかしに狙われながら、長く存在し続けられると思いますか?」
私は首を横に振った。到底無理だと思ったから。
「じゃあ、私は……」
「早く思い出して、肉体へと帰らなくてはなりません。魂の消滅は、死とはまったく違うものです。輪廻転生も叶わず、ただ消えるだけ。それはとても――」
男性が苦しげに顔を歪めて、俯いた。
「とても、恐ろしいことです……。絶対にあってはならない……!」
蘇芳色の髪の間から見える、悲壮感すら感じる決意の表情。
ドクンと――ないはずの心臓が音を立てた。
「あなたは戻らなければなりません。魂に一つも傷をつけることなく、肉体の記憶がまだ引き出せるうちに」
その言葉に、思わず身を乗り出す。
「戻れるんですね?」
「戻るんですよ。やれるかどうかではなく、やる」
男性が顔を上げ、私を見つめてきっぱりと言う。
「で、でも、どうやって……!」
「それをお手伝いするのが――この店です」
燃えるような緋色の双眸が、ひどく印象的に煌めく。
まるで、燃えさかる炎のようだと思った。
美しい、紅蓮の炎――。
「あなたの記憶を呼び覚まし、現世へ戻るお手伝いをする――」
男性は胸に手を当て、私を見つめたまま不敵に笑った。
「この、元・酒呑童子の料理屋『心』にお任せください」
◆
「酒呑……童子……?」
私は目を瞬いて、まじまじと男性を見つめた。
「酒呑童子って、あの有名な……?」
とくに歴史や伝奇に詳しくなくても知っている。日本三大妖怪に数えられる平安時代の大妖怪だ。江戸時代には御伽草子に能に歌舞伎にとさまざまな作品の題材にされていた。近年でも漫画やアニメやゲームにと引っ張りだこだ。
私の言葉に、男性が唇に笑みをたたえたまま頷く。
「ええ。大江山を拠点に悪逆の限りを尽くした、あの酒呑童子です」
「…………」
なんと言っていいやら、わからない。
信じがたいけれど、そんなことを言ったら、ここが三途の川のほとりだとか、今の私が魂だけの存在だとか、それだって相当だ。証拠があるわけでもない。だったら、そっちを信じて、目の前の男性が酒呑童子だということだけ信じないというのも、理屈に合わない。
私は気持ちを落ち着けるようにお茶を飲んで、再び男性――酒呑童子を見つめた。
「あの、信じないわけではないんですが……その……酒呑童子と料理屋というのがどうも結びつかなくて……すみません……」
「謝ることではありませんよ。むしろこんな話、すんなり信じるほうがどうかしてます。すぐに頷かれたら、逆に心配になってしまいますよ」
酒呑童子がクスッと笑って、鉄瓶の中の湯に温度計を差し入れて温度を確かめる。
そして鉄瓶から、今度は直接急須へと湯を注いだ。
「日本三大妖怪は、酒呑童子・玉藻前・大嶽丸とされていますが、中でも元・人間なのは私――酒呑童子だけです」
「え? そう……なんですか?」
玉藻前はともかく、大嶽丸ってよく知らないんだけど。
玉藻前は九尾の狐だよね? たしか、当時の天皇の寵姫だったとかなんとか……。
私がそう言うと、酒呑童子は「よくご存じで」と頷き、私の湯呑を引き寄せた。
「大嶽丸は勢州鈴鹿を棲処としていた鬼神です。黒雲を自在に操り、それで山や地を覆い、暴風雨や雷鳴――果ては鉄火の雨を降らせることすらできたといいます。退治されてなお祟りを成し、疫病の原因となる風で人々を襲ったとか」
そのまま二煎目を注いで、返してくれる。
私はほかほかと白い湯気が上がる湯呑を両手で包み込んだ。
「実は、人が人としての生を終えたあとに怨霊やあやかしと化す例はたまにありますが、生きている人間があやかしに堕ちることは非常に稀です」
「……! あなたは、生きているうちに鬼に……?」
「ええ。人の身でありながら鬼へと堕ちたモノです」
酒呑童子が穏やかに微笑んで、頷く。
額に角はあれど、彼は私がイメージする鬼とはほど遠い。
それとも、本物の鬼は彼のように美しいモノだったのだろうか?
「鬼と化すほど人の道を外れるなど――前例がありませんでした。私が退治された当時、彼岸には、そこまで堕ちたモノを裁く法も、救済する術もなかったんです」




