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汲み置きの水を鉄瓶に入れて、コンロにかける。
ここが三途の川のほとりだと思うと、台下冷蔵庫やガスコンロなどが途端にもの珍しい光景になる。電気とかガスとか、いったいどこから来てるんだろう?
湯冷まし、急須、湯呑を用意する手もとを見ながら、私は首を傾げた。
「全員が、まっすぐに……ですか? えっと……変な質問ですけど、どうしてですか? 普通、死にたくないって思うものじゃないんですか? 三途の川を渡ってしまえば、死が確定してしまうわけでしょう?」
逃げようとするものがいてもおかしくないのに。
「いえ、川まで来た時点で、ほぼ死は確定しています。渡る渡らないは関係ありません。魂が三途の川に至るタイミングは、現世で葬儀が滞りなく終了したあとなので」
「え? そうなんですか? 結構遅いんですね」
意外だった。通夜や葬儀が終わるまでって、亡くなってから二日三日立っている計算になるよね? その間はまだ、魂は三途の川に至っていないの?
「ええ。魂は棺に入れてもらったものなどを持って、川にやってきますから」
「あ、そっか! 六文銭……!」
棺桶に三途の川の渡し賃を入れる風習があるのに、それを受け取らないまま三途の川にたどりついてしまったら、意味がない。
「まぁ、実際には六文銭は必要ないんですけどね? 善人かどうかで道が決まるので」
「裁判がはじまる前に、善人かどうかがわかるんですね。なんか不思議な感じです」
「一説には、葬儀の際の人々の嘆きの量で判断しているとかいないとか」
悪人の死を嘆く人は少ないと――なるほど。よくできている。
「どちらにしろ、渡河を嫌がる者も、ましてや逃げ出す者なんていませんよ。先ほど見た河原でも、みんな綺麗に整列していたでしょう?」
「たしかに。どうしてですか?」
「三途の川を渡り、十王の審判を受けた先にしか、輪廻転生はあり得ないからです」
店の奥の扉を――川の方向を指差して、男性がきっぱりと言う。
「本能といってもいいでしょうね。魂はそれを知っている。魂にとって一番怖いことは、輪廻から外れることです。輪廻から外れ、転生することなく消滅することです。ですから、まっすぐ川を渡ります」
「魂にとっては、あの川は怖くて気味の悪いものではないんですね」
「そう感じるのは、あなたが生きているからです。生きているあなたは川を渡ったら最後、もう現世に戻ることができなくなりますから」
男性が視線を戻して、鉄瓶をコンロから下ろす。
「魂は三途の川を渡ったら、十王のもとで裁判を受けます」
「十王ってなんですか?」
「亡者の審判を行う十尊のことです。没後三十五日の第五審判の閻魔王が有名ですね」
「閻魔さま……? 閻魔さまみたいな人が十人もいるんですか?」
はじめて聞いた。
「たしかに、閻魔さま以外はちょっと知名度は低いですけど。初七日・第一審判の秦広王、十四日・第二審判の初江王、二十一日・第三審判の宋帝王、二十八日・第四審判の五官王、有名な閻魔さまは先ほども言ったとおり、三十五日・第五審判です。そして、四十二日・第六審判の変成王、四十九日・第七審判の泰山王。裁判は基本的にこの七回です」
「あれ? でも十王の審判って……」
「七回の審理でも決まらない場合や、追加の救済措置を検討する機関として、百ヶ日忌に平等王、一周忌に都市王、三回忌に五道転輪王の審判があります。基本は七回です」
「なるほど」
「下された審判により、指定された場所へと行きます。そこで定められた時間を過ごして禊をしたあと、輪廻の輪に戻るのです。再び現世に生まれるために」
「そうなんですね……」
男性が、鉄瓶の湯を湯冷ましに入れ、湯冷ましから急須に、急須から湯呑に移す。
そして茶筒の蓋で量った煎茶の茶葉を急須に入れ、続いて湯呑の中のお湯も戻す。
流れるように美しい所作だ。いっさいの迷いがない。やり慣れているのがわかる。
「私は、生きたままここに来てしまった……?」
「そうですね。稀にそういった方がいらっしゃいます。なんらかの要因で、一時的に魂が肉体から離れてしまった」
「なんらかの……」
男性がお茶を湯呑に注ぎながら、頷く。
「そうです。早く肉体に戻らないと大変なことになってしまいます」
「大変なこと? もしかして、肉体が死んでしまう……とか?」
「いえ、肉体はあまり心配する必要はありません。理由はまた説明しますが、危険なのは魂のほうです」
「え……? 魂のほうなんですか?」
「無防備な魂はとても傷つきやすく脆いうえ、悪鬼やあやかしの大好物です。見つかれば、たちまち食われてしまいます。そうでなくとも、ちょっとしたことで崩れてしまうもの。死の匂いの濃い三途の川の近くで風雨に晒されただけでも、消滅してしまう可能性だってあります」
「……! そんなに……?」
思わず、自分の両手を見つめる。でも、そんな感じはいっさいしない。そもそも、今の私が魂だけの状態だって、言われるまで気づかなかったぐらいだ。
「そのうえ、魂はそのままでは記憶を留めておくことができません。肉体から離れたまま長く放置すると、帰るべきところを見失ってしまいます。帰る場所がわからなくなれば、無防備な状態でずっとこの場所に留まらなくてはいけなくなってしまう」
「えっ……!?」
さらに信じられない言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。
「記憶を留めておくことができない……? でも……」
ついさっき、二階の窓から三途の川を見たことは覚えているけれど? わずか数分前のことだけれど、それだって記憶でしょう?
そう言うと、男性が「いいえ」と首を振る。
「それは魂が直接経験したことだから覚えているだけです。肉体とともに経験したことは、肉体に――脳に記憶されています。魂はそれを覚えておくことはできないんです」
「いや、まさか……そんなわけ……。だって、私は……」
すぐには信じられず、戸惑いに視線を彷徨わせる私を見つめて、男性がきっぱりと言う。
「では、ご自身の名前を言えますか?」
「も、もちろんです! 私は……」




