3-4
パンケーキのお皿を洗っていた私は、ハッとして隣を見た。
包丁を研いでいた蘇芳も手を止め、素早く出入口へと視線を走らせる。
「今の鈴の音って……」
「うん、術が発動した。迷える魂が来る」
ササッと手を洗って脇に退くと、蘇芳も素早く包丁と砥石、手を洗う。
ほぼ同時に、引き戸がガラリと音を立てて開いた。
「「いらっしゃいま――」」
明るい笑顔で挨拶をして――しかしそれは途中で不自然に途切れてしまう。
私はギョッとして身を弾かせ、その隣で蘇芳は顔色を変えた。
そこに立っていたのは、先日の九条さんとは違う――黒い煙を固めたような魂だった。
その姿はあまりにも黒く、黒々しく、服を着ているかどうかすらわからない。
ただ、その首からは首を吊るための縄――絞首台に下がっているようなそれが、まるでネクタイのようにぶら下がっていた。
「…………」
ゾッとするほど不吉な姿に、言葉を失ってしまう。
しかし、そこはさすが蘇芳だ。だてに千年以上も迷える魂を相手にしていない。
一呼吸のうちに気持ちを落ち着けると、綺麗な笑顔を浮かべた。
「いらっしゃいませ」
「あ! タカシお兄ちゃんだ! ねぇ、ここ、お店?」
黒い魂が、そう言って小首を傾げる。
その高い声に、そして舌ったらずな口調に、私は再度身を弾かせた。
子供――!?
「そう、お店だよ。ごはんを食べるところ」
そういえば、その禍々しい姿に驚くばかりで気づかなかったけれど、その身体は小さい。
「タカシお兄ちゃんがやってるの?」
「そうだよ」
ペタペタと中に入って来た黒い魂に、蘇芳が優しく答える。どうやらこの黒い魂には、彼の姿が『タカシお兄ちゃん』に見えているらしい。
ということは、ふわっとした記憶はあるのかな?
でも、それにしては、姿にいっさいの情報が現れていない。
「ボク、ちょっとここにいてもいい? すぐにお母さんが来ると思うから」
「うん、いいよ。椅子に座れる?」
「大丈夫」
黒い魂は頷いて、ガタガタと不器用に椅子を引き、その上によじ登った。
「タカシお兄ちゃん、お母さんに言わないでね。ボクがここにいること」
座るなり、黒い魂はそう言って身を乗り出した。
「お姉ちゃんも。絶対に言わないでね。言ったら、意味がないんだ」
黒い魂が頭を動かして言う。お姉ちゃんって、私のことだろうか? なんせその顔には目も鼻も口もないから、彼が今どこを見ているのかがわからないのだ。
「う、うん」
おずおずと頷くと、黒い魂が「絶対だよ」と念を押す。どうやら、私に話しかけていたようだ。
「約束ね?」
「うん、約束する」
「タカシお兄ちゃんもだよ」
蘇芳は唇に指を当てて何やら逡巡すると、慎重に言葉を紡いだ。
「……約束してもいいけど、言ったら意味がないってどういうこと?」
「お母さんには、自力で見つけてもらわなきゃいけないんだ! それが『ショウメイ』になるんだから!」
「ショウメイ?」
「そう! アイジョウのショウメイだよ!」
愛情の証明?
「アイジョウをショウメイしてくれなきゃ、ボクは許さないんだ!」
黒い魂が両手でドンドンとカウンターを叩いて叫ぶ。
「思い知ればいいんだ! アイツばっかり構って! ボクをないがしろにするから!」
「――ッ!」
瞬間、蘇芳は身を震わせると、勢いよく身を乗り出して黒い魂の胸ぐらをつかみ上げた。
「うわぁっ!?」
「えっ!? 蘇芳!? 何を――」
「君は、そんなことで首を吊ったのか!?」
なにをしているの。その問いは最後まで口にすることはできなかった。
私は愕然として、ジタバタともがく黒い魂を見つめた。
首を、吊った――!?
「な、なに!? タカシお兄ちゃん……痛い。は、はなして……」
「答えろ! 家族の愛情を試すために、首を吊ったのか!」
「タ、タカシお兄ちゃん……?」
ブルブルと黒い魂が震え出す。私は慌てて、蘇芳のその手をつかんだ。
「蘇芳! 乱暴は駄目っ! 落ち着いて!」
しかし、蘇芳はその手を離さない。緋色の瞳が、苛烈な怒りに燃え上がっている。
「落ち着いてください! 首を吊ったってどういうことですか!? この子は今……」
そんなことは、一言も言っていない。自分がここにいることは言わないでほしいと、母親には自力で自分を見つけてほしいと願っただけだ。
「蘇芳!」
「っ……迷える魂は、先日の九条さんのように白いのが普通だ」
蘇芳が黒い魂をねめつけたまま、奥歯を噛み締める。
「黒い魂は罪を犯して迷ったもの。とはいえ、それはこれまでの人生でって話じゃない。魂が迷った原因こそが罪なんだ!」
「迷った原因こそが罪? それって……」
「自死だ……!」
驚愕が全身を貫く。
「自ら命を絶とうとして、だけど死に切れず――迷った」
思わず、つかみ上げられたままの黒い魂を見る。
自殺……したの……?
『愛情』という簡単な言葉さえ……発音がたどたどしい子供が……?
「な、なんのこと……? ねぇ、タカシお兄ちゃん……怖いよ……」




