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「な、なんでも……な……」
「いや、そんなわけないよね?」
蘇芳が肩に手を置き、私の顔を覗き込む。
「あきらかに様子がおかしいじゃないか。そういうことは、ちゃんと言ってくれないと。魂に異変が起きていたりしたら大変じゃないか。瑠璃、変な遠慮は逆に迷惑だ。これは、君だけの問題じゃない。わかるね?」
「っ……」
たしかにこれは私だけの問題じゃない。蘇芳にとっても重要なことだ。
私のように姿を取り戻しても還る場所が思い出せない魂が、今まではいなかったけれど、これからはいるかもしれない。
私は、蘇芳の『迷える魂の救済活動』の今後を左右するかもしれない、貴重な第一例目。どんな些細なことでも共有すべきだ。
そこに異論はない。
でも、この感情をなんと言語化していいかわからない。
蘇芳に『瑠璃』と呼ばれることが、悲しくて、苦しくて、つらくて――ひどく切ない。同時に、どうしようもなく嬉しくて、幸せだ。
なんなのだろう? この正体不明で、複雑怪奇な多幸感は。
「瑠璃?」
「っ……そ、それが……」
私はなんとか気持ちを落ち着けようと努力しながら、蘇芳を見上げた。
「な、なんか、嫌って言うか……」
「嫌? それって……瑠璃って呼ばれることが?」
「嫌って言うと少し言葉が違うかも……。不快なわけじゃないんです。ただ、ものすごく落ち着かない気持ちになります。そう呼ばれて嬉しくもあるんですが、どうにも不安で、胸が苦して、痛くて……すみません。上手く説明できないです……」
「……とりあえず、そっちの椅子に座ろうか」
蘇芳がカウンターの椅子を示して、私の背を優しく押す。
「え? でも、昨日も呼んでたけど、そのときは平気だったよね?」
「はい……。なんか、急に……?」
椅子に腰を下ろしながら頷くと、蘇芳が考え込みながら「そうか」と頷く。
「今は大丈夫? 呼ばれなきゃ、苦しくならない?」
「はい、ええと……大丈夫です」
頷くと、蘇芳がホッとした様子で唇を綻ばせる。
「そっか。じゃあ、呼ぶのは少し控えようか」
「……すみません。せっかくつけてもらったのに」
そして、嬉しかったのに。
「名前はすごく大切なものだから。実は、これは自分の名前じゃないって魂が拒否反応を起こしても不思議じゃないんだ。人間はそのあたり鈍いけれど、人間以外のモノとっては命にも等しいものなんだ」
「名前が……ですか?」
「そう。魂に刻まれた真名は、命と同じ」
いまいちピンとこなくて首を傾げたけれど、すぐに狐の言葉を思い出す。
「あ……! だから、あのとき名に誓うって……」
「そう。名をかけての誓いを破るのは、命を失う――あるいは魂を傷つける行為に等しい。神やあやかしと違って人間がその力に縛られていないのは、魂に刻まれている本来の名を知る術を持たないからと考えられているね」
「魂に刻まれている、本来の名前……?」
蘇芳がコンロの火を切り、再びバナナを手に取って、頷く。
「そう。人間は親が、あるいはそれに準ずる他者が、名をつけるだろう? それはつまり、最初から仮の名前で生きているってことなんだ。だから、魂を縛るほどの強制力がない」
「えっ!? 神さまやあやかしは違うんですか!?」
「違うね。神やあやかしは、生まれた瞬間に魂に刻まれた名前を理解している」
「蘇芳も?」
「そうだね。『蘇芳』は愛する人がつけてくれた呼び名だ。そして、『酒呑童子』は通り名。ちゃんと、それとは別に真名がある。鬼に転じた瞬間から、ここにあるよ」
蘇芳がトンと胸を叩く。
心臓が、先ほどまでとは別の音を奏でた。
「……愛する人が……」
風船が萎むように、あの複雑怪奇な多幸感が消えてゆく。
「今は魂だけの状態だから、そのあたり敏感なのかもしれないな」
そんなことを言いながらバナナを素早くカットし、パンケーキとともに皿に盛りつけて、バターを落とし、たっぷりのはちみつをかける。
「はい、どうぞ。ご所望のパンケーキ」
「あ、ありがとう……」
パンケーキはしっとりふわふわで、口に入れただけでしゅわっと溶ける。
バターの塩味とコク、そしてはちみつの甘味と豊かな風味が口いっぱいに広がる。
「美味しい……!」
「よかった」
でも、焼き上がりを待っていたあのときのときめきが、もうない。最高に美味しいのに、心が躍らない。
どうしてだろう? 蘇芳に特別な感情を抱いているわけでもないのに、彼の言動に心がひどく揺れ動く。
彼には、生まれ変わってもう一度出逢うことを切望するほど、愛している人がいる――。
その事実だけで、気持ちが深く沈んでしまう。
でも、繰り返すけれど、彼を特別な意味で好いているわけじゃない。
まだ出逢ったばかりだもの。好きになれるほど、蘇芳のことは知らない。
それなのに――美味しいはずのパンケーキが、妙に胸につかえてしまう。
まるで、心と身体がバラバラになってしまっているようだ。
「……あ……」
私はふとフォークを持つ手を止め、洗い物をする蘇芳を見つめた。
そうだ……。いつだったか、同じことを思ったような――?
◆
リンと、どこからか鈴の音が聞こえる。




