2-11
周りを見回すように、椿の花を揺らす。なにかを探しているようだった。
「あの人……」
「ええ、そう。うちの主人なの。あの人、足を挫いてしもたんよ。るり渓で……」
「るり渓?」
「そう、そうやわ。るり渓にいたんよ。うちは……」
その言葉と同時に頭の椿の花が歪み、あの煙を固めたような像になる。
蘇芳がハッと息を呑み、身を乗り出した。
「るり渓……温泉ですか? 自然公園ですか?」
「自然公園……るり渓自然公園よ。毎年、足を運んでるんよ」
「ご夫婦の思い出の場所なんですね?」
「ええ、そう、瑠璃にも値する美しい場所……。主人が大好きなんよ。うちにとっても、プロポーズされた場所やから思い出深くて……」
唇から次々と零れる記憶。
それに続くように、サラリと綺麗な白髪が肩に振りかかる。
白い煙を固めただけでのっぺらぼうだった顔が、本来の姿を取り戻す。
「っ……」
七十代後半ぐらいの女性だった。だけど背はしゃんとして、その瞳は力強く煌めいて、とても若々しい。
肩に乱れて落ちていた白髪が、まるで逆再生を見ているようにひとりでに結い上げられ、赤っぽい紫色の着物が瑠璃色のウィンドブレーカーへと変わってゆく。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「っ……うちは……」
その女性が身を震わせ、はじめてはっきりと蘇芳と目を合わせる。
そして、胸もとで両手を握り合わせると、きっぱりと答えた。
「九条です。九条 登喜子と申します」
「――そうですか」
蘇芳がほっとした様子で表情を綻ばせる。
「そ、そうや……。うち、なんでここに……? 急いで駐車場まで戻るところやったんよ。足をくじいた主人のために。うちだけでは運ばれへんからどなたかに手伝ってもらおうと思って……。そやのに、なんで……!」
女性――九条さんがひどく慌てた様子で立ち上がる。
と同時に、水色のジャージのズボンにトレッキングシューズ、首にはタオルが。そして背にはリュックも現れる。
九条さんは大きく身を震わせると、両手で頬を覆った。
「あ、ああ、そうや……うちは、足を滑らせてもうて……」
その身体が、淡い光を放ちはじめる。
その光は瞬く間に強くなり、九条さんの輪郭をぼやかしてゆく。
「――ご自身の在るべき場所を思い出されましたね?」
九条さんが答えるように口を動かしたけれど、もう声は聞こえなかった。
蘇芳は優しく微笑むと、恭しく頭を下げた。
「ご来店ありがとうございました。またのお越しはご遠慮願います。どうぞ、まっすぐにお還りくださいませ」
刹那、目を開けていられないほどに九条さんが光り輝く。
しかし、それも一瞬のこと。一呼吸するうちに、店内には静寂が戻っていた。
「消え、た……?」
「――うん、還られたよ」
蘇芳が食器を下げながら、頷く。
ドキドキと心臓が高鳴っている気がする。私は両手でそっと胸もとを押さえた。
「ああやって、自分自身を取り戻すんですね……」
これが、蘇芳が千年以上続けている贖罪――。
「うん、今日はわりと簡単だったほうかな。京紫の着物を着てらっしゃったし、椿も京都市の花だし、言葉にも関西訛りが残っていたしね」
「京紫?」
「そう、あの赤っぽい紫色は京紫って色なんだ」
なるほどね。そういうところから、相手の情報を導き出してるんだ……。
「るり渓っていうのは……」
「京都府南丹市にある渓谷だよ。清流に点在する岩や滝、深淵――四季折々で姿を変える両岸の色彩豊かな自然林がまるで瑠璃の宝石のように美しいってことで命名されたんだ。自然公園や温泉がある。最近はグランピングなども楽しめる、昔から人気のスポットだ」
「……なんでも知ってますね」
「なんでもってわけではないけど、まぁ勉強してるから」
テキパキと手際よく片づけながら、蘇芳が少し照れたように笑う。
「要約すると、散策をしているときに旦那さんが足を挫いてしまって、助けを呼ぶために駐車場に戻る途中で、急いでいたからか足を滑らせて川に落ちるかなんかしてしまった。そんなところだろうね」
「大丈夫……なんですよね?」
「うん、もう大丈夫。少なくとも、彼女はここで命を落とす運命じゃない」
その言葉に安堵する。――よかった。あんなにも幸せそうにご主人との思い出を語ってらしたんだもの。これからも元気でともにいてほしい。
「来年も再来年も、仲良くお二人で瑠璃の景色を楽しんでほしいですね」
そう言うと、蘇芳は片づけの手を止めて、なにかに想いを馳せるように宙を見つめた。
「――うん、そうだね。それは素敵だな。そうあってほしい」
なにかを確かめるように、噛み締めるように呟いて、穏やかに微笑む。
その笑顔がなんだか少し寂しげに見えたのは、私の気のせいだろうか?
「あの、私も……還れますか?」
「もちろん」
蘇芳が片づけの手を止めて、力強く頷く。
「還ってくれなきゃ、僕が困るよ」
そして、身体ごと私に向き直り、にっこりと笑った。
「任せて。必ず還してみせるから」
「っ……」
思わず泣きたくなるほど優しい――綺麗な笑顔に、心臓が大きな音を奏でる。
私は身体を震わせると、深々と頭を下げた。
「お願いします……!」
「はい、頑張らせていただきます」
同じように、蘇芳も腰を九の字に折り曲げてお辞儀をしてくれる。
優しい笑顔と、温かい言葉、穏やかで丁寧な所作――なぜだろう? それだけで絶対に大丈夫な気がしてくる。
蘇芳がいてくれるなら、間違いない。私は必ず思い出せる。そして、還れる。
魂を待つ身体へ。
そして、輪廻へ。
「――そうだな、『瑠璃』にしようか」
片づけを再開しながら、蘇芳がポツリと言う。
「え? なんのこと?」
「君の名前だよ。とりあえずの呼び名がないと、不便だろう?」
「あ……」
そっか。還るまでずっと『君』とか『あなた』じゃ不便だよね。
「瑠璃……?」
「そう。君の魂は瑠璃色だから」
「え?」
思わずパチパチと目を瞬く。
あ、れ……? 九尾の狐は、蘇芳は『直接魂から情報を得る術を持たない』って言ってなかったっけ? それなのに、その狐ですら水盆を使って調べてようやく知ったことを、なぜ蘇芳が知ってるんだろう?
少し不思議に思ったけれど、どうやって知ったかはさておき、魂の色が瑠璃というのは間違いないようだし、とくにその呼び名で異論はない。むしろ、しっくりくるぐらいだ。
私は笑って、片づけを手伝うために蘇芳の隣に並んだ。
「じゃあ、瑠璃(仮)ってことで」
「うん、少しの間だけど、よろしくね」
頬を染めて嬉しそうに笑う蘇芳に、じんわりと心が温かくなる。
「こちらこそ!」




