2-10
内心首を傾げたものの、言われたとおりにおあげさんを二枚取り出して、短冊切りに。
そして再び蘇芳を見ると――できあがったお出汁をさらしで濾しているところだった。
「ああ、いい香りねぇ……!」
店内中に広がった香りに、椿頭の人が嬉しそうに言う。
濾したお出汁を別の雪平鍋に入れ、薄口醤油とみりんを加えて味を整える。味見をして、ほんの少しだけ濃口醤油を足して、それから取り出したのは――。
「えっ!? か、片栗粉!?」
片栗粉を水で溶き出したのを見て、思わず驚きの声を上げてしまう。
「え? うん。たぬきそばだからね。水溶き片栗粉は必要だろう?」
えっ!? そうだっけ!? いや、必要ない。必要ない。だって、たぬきそばって、普通のおそばに天かすが入ってるアレでしょう? どうして水溶き片栗粉がいるの?
わけがわからずポカンとしていると、蘇芳がコンロの火をつけながらクスッと笑った。
「京都のたぬきそばは、おあげさんにあんかけなんだよ」
「えっ!? 地域で違うんですか!?」
おあげを入れたものがきつねそば、卵を入れたものが月見そば、天かすを入れたものがたぬきそば――それは全国共通だと思ってた。
「うん、違う。ちなみに、京都だけでもないよ」
「そうねぇ。大阪では、おあげさんのそばを『たぬき』って言うのよ」
「えっ!? じゃあ、きつねは!?」
それじゃ、きつねとたぬきが同じものってことにならない?
目を丸くした私に、椿頭の人が「きつねはおうどん。それが、そばに化けたものやから『たぬき』らしいわ」と言う。ええっ!?
「そばとうどんで違うんですか? 同じ具材なのにですか?」
「そうなのよ」
「考え方は京都も一緒なんですけどね。きつねがどろんと化けたから、たぬきはおあげにあんかけなんで」
「どろんと……? あ! だからトロトロに?」
「そうそう。そして、大阪の天かすのおうどんは『ハイカラ』だったかしら?」
「たしかそうですね。東京のたぬきはハイカラだろうってことだったはずです」
「し、知らなかった……」
呆然と呟くと、椿頭の人が「ふふふ」と笑う。
「驚くわよねぇ。私も、京都以外では天かすを入れたおそばを『たぬきそば』っていうてはじめて聞いたときには、ものすごう驚いたもんやわ」
「……!」
今、方言が――?
椿頭の人を見ると、着物から覗く手が肌本来の色を取り戻していた。その質感も、煙を固めたようなもやっとした感じではなくなっている。
椿頭の人はご年配の方なのだろうか? 指は細く骨ばっていてしわだらけで、手の甲も血管がくっきりと浮き出ている。でも、爪はきちんと手入れがされていて、指先をそっと重ねた所作はとても上品だ。
そして、左手の薬指は、とてもシンプルな結婚指輪がはまっている。
もしかして、姿が戻りはじめた――?
「きつねさんも美味しいんやけど、うちはやっぱりたぬきさんやな」
「私もです」
水溶き片栗粉でとろみをつけたお出汁に私が切ったおあげを入れながら、蘇芳が頷く。「京都でそばというと、やっぱりにしんそばが有名なんですけどね」
「そうやねぇ。県外の人からしたら、まず食べるべきはにしんそばかもしれへんねぇ」
「ですが、私はたぬきそばや鶏卵、お酒を呑んだあとの花巻きも大好きなので、ぜひとも京都にいらした際にはそちらも楽しんでいただけると嬉しいですね」
「ああ、鶏卵もええねぇ」
けいらん?
小首を傾げると、椿頭の人が「卵をとじたあんをかけたおそばなんよ」と言う。
「卵をとじたあん?」
「そう、卵を濃い目のお出汁で作ったあんにとき入れて強火で一気に煮立たせると、卵が薄い膜状になってふんわりする。それをかけたおそばやうどんを、鶏卵って言うんだ」
「へぇ……」
食べてみたい。
「美味しいよ。今度食べてみて」
蘇芳がそう言って、小さな寸胴で沸かしたお湯に生そばを入れて軽くほぐす。一分ほど待ったらザルに上げ、しっかりと湯切りして、温めておいたどんぶりに入れる。
私は、どんぶりの色と柄を見て、戸棚から薬味皿を取り出し、山葵、生姜、小口ねぎを盛りつけた。
「――うん、ありがとう」
蘇芳が微笑んで、とろとろのあんをたっぷりとおそばにかける。
そして、どんぶりの縁を綺麗に拭うと、薬味を添えて椿頭の人の前に置いた。
「お待たせいたしました。たぬきそばです」
「ああ、これこれ!」
椿頭の人が嬉しそうに声を弾ませて、「いただきます」ときちんと手を合わせる。
そして、木杓子であんをすくって――おそらく口がそのあたりにあるのだろう。そっと花弁に当てた。
「ああ、沁みるわぁ~」
相変わらず口は見当たらないけれど、ちゃんと食せているらしい。――不思議だ。
「お出汁がきいとって、優しいて、ほんまに美味しいわぁ~」
椿頭の人はそう言うと、薬味の皿に手を伸ばした。
「うちは、生姜をどっさり入れるんが好きなんよ」
「ああ、私もそうですね。冬場はとくに」
「わかるわぁ。夫は少し変わっとって、一口分を木杓子に入れて……」
そう言いながら、椿頭の人が一口分のそばを木杓子に入れる。
「ここにちょんと山葵をのっけて食べてはるわ。たぬきそばに山葵を合わせるんはわりと珍しいと思うんやけど……」
「そうですね。薬味で出てこないお店も多いですね」
「そうやろ? 若いころ、一度それで喧嘩したこともあるわ。たぬきさんには生姜やろ。なんで山葵やねん。そんなもん別に自由やろう。決まりなんてあれへんのやから、好きに食べさせてぇやって……」
楽しげにそこまで話して――椿頭の人のふと手が止まる。
「そうや、あの人……大丈夫やろか……」




