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「本当? 嬉しいわ」
「お料理の前には、この『瑠璃』をぜひともお試しください。私のおすすめでして」
そう言いながら、湯冷ましで適温にした湯を急須に入れる。
その言葉どおり、とても清々しく爽やかな香気が店中に広がる。
「ああ、いい香りねぇ……!」
うっとりと声が艶めくのと同時に、椿の赤がさらに鮮やかになる。それだけじゃない。なんだか花弁がみずみずしく潤った感じがするのは気のせいだろうか?
その様子を見て蘇芳は目を細めると、椿頭の人の前に湯呑を置いた。
「――どうぞ。お料理は何をお作りしましょうか?」
「あ、そうよね。入ったからには注文をさせていただかないと。お金も落とさずに助けていただくのは申し訳ないわ。じゃあ、メニューをいただけるかしら」
「いえ、メニューはないんです」
その言葉に、椿の花がピクンと揺れる。
「えっ? そうなの? あらあら、いやだわ。もしかして一見さんお断りのお店だったりしたのかしら? 祇園には、お客さまは会員さま限定で、メニューがお任せのみのお店もよくあるけれど……どうしましょう。あまりお高いのは困るのだけれど……」
「いえ、そんなことはありませんよ。大丈夫です」
蘇芳は首を横に振って、安心してくださいというように、にっこりと笑った。
「食べたいものをご注文ください。だいたいはご用意できるかと」
「そう? じゃあ……」
椿頭の人は少し考えると、おずおずと花弁を揺らした。
「たぬきそばをお願いできるかしら?」
「――かしこまりました」
蘇芳が恭しく頭を下げ、小さな寸胴と雪平鍋を取り出す。
私は布巾の山の傍に予備の襷を見つけて、それを手に取った。
「あの、なにかお手伝いできることはありますか?」
「え……?」
意外な言葉だったのだろうか? 蘇芳が驚いた様子で私を見る。
だけどすぐに嬉しそうに唇を綻ばせると、首を縦に振った。
「じゃあ、青ネギを小口切りにして、生姜と山葵をすり下ろしてもらえるかな?」
「わかりました」
背後の業務用冷蔵庫を開けると――青ネギと土生姜と山葵芋だけがちょこんとあった。 ほかには、なにも入っていない。
あ……れ? でも今、『だいたいはご用意できる』って言ってたよね?
「……?」
首を傾げていると、蘇芳が「あ、ゴメン。一旦閉めてくれる?」と言う。
私は慌てて、冷蔵庫のドアを閉めた。
「ごめんなさい。開けっ放しにしたまま考えごとしたりして……」
「いや、別にそれを咎めたわけじゃないよ。謝らないでいいから」
蘇芳が、大丈夫だよとばかりに微笑む。
そして、小さな声で「出汁昆布」と言うと、再び冷蔵庫のドアを開けた。
「っ!?」
そこには、ガラスの水差しに入った出汁昆布があった。
水差しの中の水は、もうすでに若干色づいていた。
まるで、一晩出汁昆布を漬けておいたかのような――。
「そ、れ……」
なんで? さっきはなかったのに。
あっけにとられる私に、蘇芳がそれを取り出しながら、人差し指を唇に当てる。
そして、口の動きだけで「あとでね」と言うと、包丁やまな板などを私の前に用意し、コンロに向かった。
「……あ……」
そっか、そうだよね。椿頭の人の前で説明するわけにはいかないよね。彼女(?)には、ここが三途の川のほとりで、自身が肉体から離れてしまった迷える魂だという説明をしていない。おそらく説明を受ける前の私がそうだったように、自分が死に瀕していることに未だまったく気づいていないはずだ。
ここまで説明なしにこれたんだから、余計な混乱を招かないようにしたいはずだ。
『食材にかんしては、この場所ならではのからくりがあるから』
今朝、蘇芳はそう言っていた。つまりは、これも呪術の一つなのだろう。
あとで説明してもらえるなら、それでいい。今は、作業に集中しよう。
私は手を洗って――ついでに土生姜も綺麗に洗うと、ふと蘇芳のほうを見た。
彼は、雪平鍋に水差しの水を出汁昆布ごと入れて沸かしながら、鰹節の用意をしている。
私は少し考えると、戸棚からスプーンを取り出した。
お蕎麦のお薬味用なら、皮は薄く剥いたほうがいいだろう。煮ものとかに使うのなら、皮ごとすり下ろすべきだんだろうけど。
「生姜はたっぷりめにお願い」
「あ、はい。わかりました」
包丁で薄く皮を剥いて、くびれたところや細かいところは、スプーンでこそげ取る。
そして、繊維の方向をたしかめて、垂直になるようにおろし金に当てて、すり下ろす。
すり下ろしたら、軽く絞って、乾燥・変色しないようにラップで包む。搾り汁のほうもきちんと取っておく。
続いて、山葵芋の茎に繋がる部分を切り落として、包丁で固いイボイボだけこそげ取る。そして、本鮫皮を使った山葵用のおろし器でしっかり下ろす。
「…………」
そこで、ふと視線を感じて、私は隣の蘇芳を見た。
「……? あれ? なにか間違ってました? 山葵は根元のほうからじゃなく頭のほうから下ろすんですよね? 合ってますよね?」
「あ、うん。合ってるよ。手際がいいから……」
え? そうかな? 簡単なことしかしてないし、普通だと思うけど。
「あ……りがとうございます……? あの、薬味用ならこれぐらいで大丈夫ですか?」
「うん、そうだね。ありがとう。あとは、おいなりさん用に焚いたおあげさんを二枚ほど、短冊切りにしてくれる?」
「はい……って、え……?」
私は脇に避けられているつくりかけのおいなりさんを見た。
たしかに、まだご飯を詰めていない焚いたおあげさんが積み重なっている。
でも、注文は『たぬきそば』だったよね? おあげさんって『きつね』じゃない?




