2-8
「あ、いえ! 九尾の狐に送っていただきました! 一人ではないです!」
慌てて両手を振って言うと、蘇芳がホッとした様子で息をつく。
「あれ? その狐は?」
「ええと……扉の前で別れました」
そう答えると、蘇芳が顔をしかめて「なんでだよ……。いなりずし持って行けよ……。二度手間じゃないか」とブツブツ言う。――やっぱりそう思うよね。私も言ったんだけど、帰っちゃったんだよねぇ。
「……自由ですよね。あの狐」
「まぁ、狐だからね。元来、そういう性質なんだよ」
蘇芳がやれやれと肩をすくめて、「仕方ない、持って行くか……」と呟いた時だった。
リンと鈴の音が響いて、蘇芳がハッと身を震わせる。
そしてひどく慌てた様子で、カウンターから身を乗り出した。
「君! こっちへ!」
「え……?」
「術が発動した!」
それって――迷える魂が来たってこと!?
私は言われるまま、急いでカウンターの中に入った。
「こ、ここでいいんですか? 二階などに行かなくても?」
「いや、とりあえずは……あ!」
蘇芳が姿勢を正す。
と同時に、カラカラとやや遠慮がちに、ゆっくりと戸を開く。
そして、ひょこっと――巨大な椿の花が顔を覗かせた。
「っ……!」
「いらっしゃいませ」
反射的にビクッと身を震わせた私の横で、蘇芳が明るい声を上げる。
その綺麗な笑顔に、私は慌てて「いらっしゃいませ」と頭を下げた。
「あのぅ、ここは小料理屋でよろしい?」
椿の花がおずおずと言う。蘇芳は笑顔のまま頷いた。
「そのようなものです。どうぞ席へ」
「…………」
人間の形はしていた。だけど、頭は巨大な椿の花だった。肌の色もなんだかおかしい。まるで、白い煙を人型に固めたような感じだった。
赤っぽい紫の着物を着たその――人のようなものは、「ああ、よかった」と言いながら、蘇芳が示した席に座った。
「なんか知らない場所に迷い込んでしまったみたいで、あとで道を教えてもらえます? よければ、お電話も貸していただきたいわ」
「はい、もちろん。今、お茶を淹れますね」
蘇芳がそう言って、台の上にある作りかけのおいなりさんを一旦片付けるためだろう。椿頭の人のようなものから一旦離れて、戸棚を開ける。
私はそのあとについて行って、声をひそめた。
「迷える魂って、ああいう姿なんですか?」
身体から魂が離れてしまったショックで、一時的に自分を見失っているから?
蘇芳は戸棚からラップを取り出しながら、小さく頷いた。
「そう。君もそうだったよ」
「そうなんですか?」
「でも、すべてを失ってしまったわけじゃない。それがあの姿だ」
すべてを失ってしまったわけじゃないからこその――姿?
「あ……。もしかして、あの姿にヒントが隠されているってことですか?」
「その場合が多いね。あとは、話しながら紐解いていく。――気づいた? 彼女、方言は出てないけれど、関西訛りだ」
そう言うと、ラップを手に椿頭の人の前に戻る。
私は昨日自分がしてもらったように、汲み置きの水を鉄瓶に入れてコンロの火にかけた。
蘇芳がそれを見て嬉しそうに微笑み、おいなりさんにラップをかけてゆく。
椿頭の人は――店内を眺めているのだろうか? 椿が円を描くように揺れていた。
「…………」
――本当に訊かないな。『ここはどこ』って。私は真っ先に訊いたのに。
蘇芳が『好ましい者』に見える術の効果って、すごいんだな……。
「瑠璃色がお好きですの?」
「っ……」
そんなことを考えていると、椿頭の人が不意に蘇芳に話しかける。
片づけを終えてお茶の用意をしていた蘇芳は、思わずといった様子で手を止めた。
そして一瞬私のほうを見たあと、「そ、そうですね……」と俯いた。
「思い入れがある色ですね……」
そう答える蘇芳の耳は真っ赤になっていて、私は瑠璃色の着物に視線を落とした。
思い入れのある色の、女性ものの着物。そういえば、なにも考えずに借りちゃったけど、もしかしたらこれもとても大切なものなんじゃないのかな? 汚さないようにしなきゃ。
「ああ、やっぱり? 暖簾の色も本当に綺麗だったから」
「……気に入っていただけたのなら、よかったです」
「実は、私も瑠璃色がとても好きなのよ。昔、主人に……」
そこまで言って――ふと言葉を切り、椿の頭を傾けて、手で花弁を撫でる。
「あら、なんだったかしら?」
「……瑠璃と言えば、今日のお茶も『瑠璃』という名前なんですよ。宇治茶なんですが。神秘的な深い輝きを持つ『瑠璃』のように美しく鮮やかで香り豊かな茶葉が特徴なんです。淹れたときの水色もまるで透きとおるようで、本当に美味しいんです」
蘇芳が沸騰したお湯を湯冷ましに入れながら、やんわりと話題を変える。
おそらく、それ以上考えさせないためだろう。『主人に……』と言いかけたってことは、椿頭の人が思い出そうとしたのは、自分の過去――エピソード記憶だ。
なにも覚えていないことに気づいたら、パニックを起こしかねない。そうならないよう話題を変えたんだと思う。
頭が椿の花なので表情はおろか顔色すらわからないけれど、花の色が少しだけ鮮やかになったので、話題を変えたことに対して不快感を覚えてはいらっしゃらない――と思う。
「それは楽しみね。お茶は大好きなの。とくに、ほうじ茶。あの香ばしさがなんとも」
私の考えを裏付けるかのように、椿頭の人が朗らかな声で言う。
「あ、そうなんですね。同じお茶屋さんの『琥珀』という名のほうじ茶もありますので、食後にはそちらをお出ししましょうか」




