1-2
どう反応したものか迷っていると、男の人が私を見てビクッと身を震わせる。
そして、まるで感極まったといわんばかりに顔を歪めて――しかしすぐに慌てた様子で頬を引き締める。さらに口もとを手で覆い、乱れた気持ちを落ち着けるかのように何度か深呼吸して――ようやく笑顔を浮かべた。
「いらっしゃいませ」
え……? なに? 今の反応。
疑問に思ったものの、でも今重要なのはそれじゃない。私はおずおずと中に入った。
「小料理屋さん……で合ってますか?」
「そんなようなものです。どうぞ、席へ」
私は、穏やかな微笑みに誘われるように男性の目の前の席に座った。
熱いおしぼりで手を拭って、ようやく人心地つく。
「あ、あの……実は、私……急にこんなこと言われても困ると思いますけど、自分がなぜこんなところにいるのか思い出せなくて……。そもそもここはどこなんでしょうか?」
「あ……。それは……」
なぜか男性は言いよどみ、そのまま口を噤んでしまう。
基本的に『ここがどこか』なんて、答えに窮するような質問ではないと思うのだけれど、答えづらいような場所なのだろうか?
あの川の不気味さとこの街の妖しさを思い出して、背中がヒヤリと冷える。
どうしよう……。もしも、帰れないような場所だったら……。
怯える私の前で、男性はしばらく逡巡したあと、ふと店の奥へと視線を走らせた。
「――川は見られましたか?」
「……! は、はい! なにもない川……。すごく気味が悪くて……」
「そうですか。この店の二階からも遠くに見えるのですが、そちらを見ながら説明させていただいてもよろしいですか?」
「え……?」
あの、川を――?
「気が進みませんか? 怖い思いをされたでしょうから、無理はなさらないでください」
「あ、いえ……説明は聞きたいです。川も、安全なところから見るぶんには問題ないです。ないと……思います。大丈夫です」
気になったのは、そんなことではなく。
「あの……遠く、なんですか?」
この街に入り込むまで、わずか数秒だったのだけれど。
「あ、いや……それほど遠くではないですね。二、三百メートルほど先なだけなので」
「二、三百メートル先……?」
どう考えても、川からそんなに走った覚えはない。
「そうですが、なにか?」
男性が不思議そうに首を傾げる。私はあやふやに首を横に振った。
川からそんなに離れているとは思わなかった――と言ったところでなんになるだろう?おかしなことを言う人だなと思われて終わるだけだ。
「いいえ、なにも……。よろしくお願いいたします……」
「では、こちらへどうぞ」
男性がカウンターから出て、奥の扉を手で示す。
扉の向こうは、事務所兼食材や資材置き場といったスペースだった。広くはなかったが、すっきりと片付いていてごちゃついた感じはまったくなかった。
さらにその奥の木の引き戸を開けると、そこには箱階段が。箱階段とはその名のとおり、木製の箱を段々に積み上げたような形の階段のことをいう。簡単に言うと、人がその上を昇り降りしてもまったく問題ない強度で作られた階段状の戸棚だ。
「素敵……」
思わずポツリと呟くと、男性が目を細めて笑う。
その優しく穏やかで――まるで愛しむような笑顔にトクンと心臓が跳ねた。
「古いものにご興味が?」
「そうですね。とてもときめきます」
使い込まれて飴色になった箱階段は、足を載せるとギシリと鳴く。それだけでわくわくしてしまう。
二階に上がると、そこは二間続きの座敷だった。真新しい青々とした畳に、味わい深い真壁造りの土壁。床間には、水墨画の掛け軸が。
昔ながらの竿縁天井に、繊細な造りの透かし欄間。稲穂波文様の京唐紙が使われた襖。凝った意匠の引き手――なにもかもが素敵だった。
「素敵……」
まさか、こんな京町家が見られるなんて。
うっとり眺めていると、男性が「こちらです」と言って、通りとは反対側の障子を開け、窓を示す。
「あれが、お客さまが見られた川です」
「え……?」
言われるままに窓の外を見て――私は目を見開いた。
本当にその川は二、三百メートル先にあって、そこに至るまではいっさいなにもない。つまり、二、三百メートルも石だらけの――いや、石しかない河原が続いている。
だけど、驚いたのはそんなことではなく。
「人が……?」
河原には、たくさんの人がいた。白い服を着た人たちが。
三本の行列ができているだけではなく、さらには、河辺で――遊んでいるのだろうか?うずくまってなにかをしている子供たちの姿も。
「どうして……。さっきは、誰もいなかったのに……」
「……あなたがたどり着いた場所は、また少し別でして」
え? でも、見渡す限り誰もいなかったんだけど。あの河原には遮るものなんてなにもなかったわけだから、離れていても気がついてもよさそうなものなのに。
首を傾げた私に、男性はさらに困惑することを告げた。
「ええ。あれは――三途の川です」
「さっ……!?」
三途の川!?
「ぐ、群馬県のですか?」
驚きすぎて、妙な返しをしてしまった。
案の定、意外な反応だったのか、男性が面白そうに目を細める。
「群馬県の三途川には、白装束の人が集まってくるのですか? それは面白そうですね。見てみたいです」
「し、白装束!?」




