1皿目 とくんとときめくナポリタン
キキキキーッと空気を切り裂くようなブレーキ音に、耳をつんざく甲高い女性の悲鳴。
必死に伸ばした手が、硬直している女の子の身体を押し出すことに成功する。
零コンマ何秒の世界で、たしかにホッとしたのを覚えている。
しかしその瞬間、今まで感じたこともない衝撃とともに、私の意識は黒く塗り潰された。
「え……?」
気がついたら、河原に立っていた。
「あ、れ……? 私……?」
目の前には、ゆったりと揺蕩うなんの変哲もない大きな川が流れている。
私はそれを見つめてパチパチと目を瞬き、戸惑い気味に視線を巡らせた。
いったいここはどこだろう? どうして私はここにいるんだろう?
川岸に、もう葉をつけることは二度とないのだろうと思える枯れた大樹があるだけで、ほかにはなにもない。
「え……? 待って。なんでなにもないの?」
私はようやく目の前の光景の異常さに気づいて、きょろきょろとあたりを見回した。
明け方なのか、宵の口なのか、とにかくあたりは薄暗いが、真っ暗というわけではない。この明るさで川の対岸は見えないということは、かなり大きな川なのだろう。
それなのに、堤防が整備されていないなんてことがあるのだろうか? 日本で?
見渡す限り続く平坦な川岸。少し雨が降っただけで、すぐに一帯が水に埋まってしまいそうだった。いや、もしかしたら、すでに洪水があたりをさらったあとなのかもしれない。建物のようなものも、街灯などの明かりも、何一つとして見えないからだ。
「っ……」
ゾクリと背中が戦慄く。私は思わずあとずさった。
ここにいてはいけないと、本能的に思う。
私はくるりと回れ右をすると、川を背に走り出した。
どこに行けばいいかなんてわからない。なんせ、川と平坦な川岸以外は見えないのだ。月や太陽すら見つからず、方向だってわからない。
それでも、とにかくここにいてはいけない。一刻も早く離れなければ!
「っ!? なっ……!?」
しかし、十メートルも行かないうちに、今度は日本情緒溢れる街の中に入り込む。
慌てて足を止めて振り返ると、そこにはくぐった覚えがない瓦葺屋根の冠木門があった。その向こうはあの河原なのだろう。砂利ばかりの平坦な地面だけがある。
「嘘……。さっきまではなにも……」
河原にいたときは街なんて影も形も見えなかったのに、秒で街の中なんておかしい。
私はぶるぶる震えながら、あたりを見回した。
しかし恐怖に反して、そこはとても美しい街だった。まるで花街のような――そうだ、京都の祇園のような風情。
きりりと美しい一文字瓦から下がる、朱塗りの提灯。年季の入った紅殻格子。軒下には綺麗な曲線を描く竹製の犬矢来に、ばったん床几。
見惚れるほど美しい総二階の京町家が、石畳の道の両側にずらりと並んでいる。
でも――やっぱりおかしい。誰もいない。
町家には温かな明かりが灯っているのに、人の声はまったく聞こえない。いや、人の声だけではない。生活音のようなものもだ。ただ、しんと静まり返っている。
「ど、どうしよう……?」
怖くて、これ以上進める気がしない。いや、進むどころか! この街からも、今すぐに逃げ出したかった。でも、どこに? 河原に戻るのも、絶対にごめんだった。
頭を抱えていると、ふと良い匂いが鼻孔をくすぐる。
瞬間、ぐうっとお腹が鳴る。私はその香りに誘われるように視線を巡らせた。
格子戸にかけられた美しい白藍の暖簾がひらりと揺れる。そこには、瑠璃色で『心』と一言書かれていた。
「こ、ころ……?」
たったそれだけのシンプルなデザインなのに、深い瑠璃色がひどく心に残る。なんとも印象的な暖簾だった。
小料理屋さんだろうか? それとも居酒屋? どちらにしても、これだけ良い匂いがしているということは、間違いなく誰かはいるのだろう。
「暖簾が出てるってことは、営業中……なんだよね?」
ほかの店とは違い、朱塗りの提灯は下がっていないけれど、代わりに足もとに麻の葉の組木が素敵な行燈が置かれている。それにはしっかり明かりが灯っていた。
「だ、大丈夫……」
なにか少しでもおかしなことがあれば、ダッシュで逃げよう。そうしよう。
自分にそう言い聞かせて、胸に手を当てて何度か深呼吸をする。
そしてぐっとお腹に力を込めると、私は意を決して紅殻格子の引き戸を細く開けた。
「ごめん……くださ……」
おそるおそる中を覗いて――思わず目を見開く。
『うなぎの寝床』と呼ばれる京町家らしい、奥に長い店内。
清々しい清潔感のある白木のカウンターに、等間隔に下がるまあるい和紙製シェードのペンダントライト。温かみのある漆喰の塗り壁には、はっと息を呑むほど美しい瑠璃色の桔梗を生けた、自然な風合いを生かした焼き物の一輪挿しが掛かっている。
無駄がいっさいなくすっきりとしていて、明るく清潔感がある。煌々とした暖色系の灯りにほっとする――なんとも素敵なお店だった。
だが、それよりも。
「……」
とっさに言葉が出てこない。カウンターの奥には、ひどく美しい男性が立っていた。
ロングウルフの美しい蘇芳色の髪に、ぞくりと背が戦慄くほど色香のある緋色の双眸。まっすぐ通った鼻筋に、引き結ばれていても甘やかな薄い唇。男らしく引き締まった頬。『魔性の美』とはまさにことのことを言うのだろう。見た瞬間に言葉を失ってしまうほど、いっさい目を逸らすことができなくなるほど、そのまま魂まで抜かれてしまいそうなほどに、その男性は美しかった。
濃紺の着物に黒い前掛け、そして黒い襷をかけた姿も、言葉にならないほど素敵だった。
だけど――その額からは、なぜか二本の漆黒の角が生えている。
あれはなに? なにかのコスプレ? 料理屋の店主が?




