2-5
「なぜって……叩けば痛いに決まって……」
「だから、なぜだ? 今のお前は肉体を持っていないのだぞ?」
「え……?」
思いもしなかった言葉に、私はポカンと口を開けて九尾の狐を見つめた。
「己が手首に触れてみよ。脈は打っているか? 肌は温かいか? その下に流れる血潮を感じるか?」
言われるままに、手首に触れる。そんなことしなくても、わかっていたけれど。だって、昨日から心臓がドキドキする場面は何度もあったもの。
「はい、すべて感じます」
「なぜだ? 今のお前には心臓などないのだぞ? 血潮も流れてなどおらん。もちろん、体温など感じるべくもない。魂に温度などあるものか」
「そ、それは……でも……」
戸惑いに視線を揺らす私に、九尾の狐が扇で口もとを隠して目を細める。
「安心せい。それが悪いと言っているのではない。むしろ、その感覚を忘れてはならぬ。それこそ、おぬしがまだ生きておる証拠。身体と繋がっているたしかな証だ」
「……! 生きている……証拠……?」
「そうだ。錯覚というヤツだな。肉体の感覚の記憶が鮮明であるがゆえに起こる現象だ。そう突拍子もないことでもないぞ? 現世でも起こる」
「え? 現世でも、ですか?」
「戦争で二の腕から先を失った者が手の痛みを訴えたり、事故で太腿から下を失った者が足の裏が痒いと言い出したりな」
「あ……。聞いたことがあります」
「そうであろう? それが起こるのは、魂が肉体の感覚を覚えておるからだ」
私は両手で胸を押さえた。その下で、心臓はドクドクと力強く脈打っている。
そうだ。考えてみれば、心臓はつまり肉体だ。魂だけにあるはずがないんだ。
「これが……肉体の……感覚の記憶……」
「そうだ。酒呑童子は、料理によってその感覚をより鮮明に呼び覚ます。そうすることで、失ってしまっていた記憶をも揺り起こすのだ。半ば強制的にな」
「感覚を鮮明に……あ、そうか」
蘇芳の言葉を思い出す。
『五感と結びついている記憶は、より強く残っているものです』
そうだ。たしかにそう言っていた。
『料理は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚――五感すべてで楽しむもの。そのため料理にかんする記憶は強く残っている可能性が高い。それをきっかけにして、身体に戻るために必要な記憶を呼び覚ますのです』
本来なら、魂だけの無垢な存在が、『五感で楽しむ』ことなんてできるはずがないんだ。だって、感覚器官があるのは肉体だから。
だけど、料理でその錯覚――感覚の記憶に訴えかけて、まず五感を鮮明に呼び覚ます。そして、さらにその奥に眠っているエピソード記憶を引き出しているということなんだ。
「すごい……」
思わず呟いた私に、九尾の狐がニィっと笑う。
「ああ、よく考えたものだと思う。あやつの努力は本当に涙ぐましいよ」
「たしか、二百年ぐらいかかったって……」
「二百年など、大妖怪にとってはさほど長い年月でもないが、それでも妖怪というものは元来うつり気で気まぐれ、欲望に忠実なものだ。それが二百年も一つの努力を続けるなどおよそ考えられん。そこは驚嘆に値する」
九尾の狐は信じられないとばかりに息をついて――でもすぐに眉を寄せた。
「いや、むしろ欲望に忠実だからか? あやつの願いはそれほど強いということか」
「……! 願い……」
心臓がひときわ大きな音を奏でる。
私は思わず唇を噛み締め、俯いた。
『僕は、どうしてももう一度彼女に会いたいんだ。今度は――人間として』
これほどすごい迷える魂を無事に肉体を戻す術を、たった独りで構築するほどの
千年以上も深く眠ることすらせずに、努力し続けられるほどの
切なる願い――。
「…………」
どうしてだろう? なんだか胸が痛む。
「とにかくだ。その感覚が鮮明なうちは大丈夫だ。少しでも希薄になったら、それこそが危険信号だ。気をつけよ。魂の死が近づいている」
私はハッとして、その正体不明の痛みを振り払った。
大事な話をしてもらっているんだから、ちゃんと聞いていなくちゃだめだ。
「わかりました」
「――よし、では、魂を保護する術を施すとするか。いや、まずは記憶がなぜ戻らぬのか調べるべきか?」
九尾の狐が私の顔を覗き込みながら、しばらく逡巡する。
そして、「よし、まずは調べるほうだ」と言うと、パンパンと手を打った。
「水盆をこれへ」
その呼び声に答えるように、ダイドコに繋がる襖がスラリと開く。
「っ……! え、ええっ!?」
入って来たのは、五匹の狐たち。もちろん――普通の狐じゃない。見た目は狐そのものなんだけど、なんと二足歩行。三歳児ぐらいの大きさで、平安時代の女童のような格好をしている。か、可愛い!
狐たちは五匹協力して、およそ物など持てそうにない獣の前足で、私でも抱え切れない大きさの陶器の水盆を持ってくると、九尾の狐と私の間に置いた。
その吸い込まれそうなほど美しい翡翠色に見入っていると、九尾の狐が何やら口の中でごにょごにょと唱える。
その瞬間、底から水が湧き出し、水盆をなみなみと満たした。
「え、ええ……? なんで……?」
あまりの不思議さに目をパチパチさせていると、九尾の狐が懐から何やら取り出して、その水にぽちゃんと落とした。
「……? 鉱石?」
水晶だろうか? 飴玉ぐらいの大きさで、透明感のある石だった。
「そうだ。そのまま見ていろ」




