2皿目 ほっこり和むたぬきそば
「なんでだろう? そこまで姿が戻って、思い出せないなんて」
襖の外で、まだ蘇芳がブツブツ言っている。
「そんなこと、今まで一度だってなかったのに……」
私は帯を締めながら、襖を見つめた。
「一度も、ですか?」
「一度たりとも。少し時間を置けば戻るかとも思ったけれど、まだ思い出せてないみたいだし、これはどうしたもんか……」
あの、あと――。ナポリタンで思い出せたことを足がかりに、蘇芳が持つ現世の知識も総動員して、二人でさまざまな話をしながら記憶を手繰り寄せる作業をしたのだけれど、結局私は自分の名前を思い出せなかった。
もちろん、思い出せたこともある。
でも、それらはすべて中学生ぐらいまでの記憶。
ここからは、さらなる私の記憶を呼び覚ますべくこれでもかってほど話をしたあとで、蘇芳が立てた仮説なのだけど――取り戻した姿からすると、私の年齢は二十代前半ぐらい。つまり、私が還るべき場所はその年齢の肉体なわけで、だから今の自分により近い記憶を取り戻す必要があるんじゃないかということだった。
蘇芳は、『普通は、一つのきっかけで芋づる式に思い出すものなんですけど……』と、しきりに首を捻っていた。
結局私は肝心なことはなにも思い出せないまま、長時間にも及ぶ思い出し作業のせいかひどく疲れてしまって、ほとんど倒れるように眠りについてしまった。
目が覚めたあと(ちゃんと八時間ほど眠っていたらしい)蘇芳が作ってくれた朝ご飯を一緒に食べながら二人でもう一度軽く記憶を探る作業をしてみたけれど、やっぱり駄目。昨日思い出せた以上のことは出てこず。現在に至る――というわけだ。
私は部屋の鏡台で自分の姿を確認すると、襖を開けた。
「お待たせしました」
「えっ……?」
続きの間にいた蘇芳が振り返って、驚いた様子で目を丸くする。
「あれ? 一人で着られた……んですね? お手伝いするつもりだったんですけど。僕、単衣を着たら声をかけてくださいって言いましたよね?」
「そうですね。でも、単衣を着た時点で、なんとなく一人で着られそうだなと思って……。それより、もう敬語いいですよ。昨日も、さっきも、考え込んでるときはだいたい取れてましたし」
「え……?」
無意識だったのか、蘇芳はパチパチと目を瞬いたものの、それでも嬉しかったのだろう。少し照れくさそうに微笑んで、首を縦に振った。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな。そちらも、無理のない範囲で砕けてくれると嬉しい。長期戦になるかもしれないしね。もっとも、そうならないように力を尽くすけれど」
「蘇芳って呼んでくれって言われてますし、徐々に崩していきますね」
私も、にっこり笑って頷く。
「手はするすると動いたんだけど、大丈夫? 変なところはないですか?」
「大丈夫。すごく綺麗に着られているよ」
しっとりと滑らかな手触りの艶めく瑠璃色のちりめん生地。裾もとと袂には、揺らめく霞模様のぼかしが入っている。その上にそっと散らされた、華麗な花の装飾模様。
落ち着いた柄だけど、色彩の美しさと典雅な光沢がハッと目を引く華やかな着物だ。
……これ、絶対高いよね? いや、安いわけがないよ。汚したりしたらどうしよう?
着替えは嬉しいけど、もっとラフなものでよかったのに。
「話を戻すけど、ってことは、着物を日常的に着ていたのかな? たしか、母方の実家は京都だって言ってたよね?」
「そうだけど、和服は関係ないと思う。中学のころまでの記憶しかないけど、祖母や母が着物を着ていたところを見た覚えは……」
ないと首を横に振ると、蘇芳が「そうか……」と言って、唇に指を当てて考え込む。
しかしすぐに顔を上げると、私の背後を指差した。
「あ、もう一度中に入ってくれるかな。髪をまとめてあげるよ。これから出掛けるから」
「え? 出掛ける?」
出掛けるような場所が、三途の川近辺にあるの?
「そう。長期戦になるかもしれないって言っただろう? その間、ずっとそのままでいるわけにはいかない。教えただろう? 魂は脆いんだ」
そうだった。たしか、死の匂いの濃い三途の川の近くで風雨に晒されただけでも、消滅してしまうほど脆いって。
「まずは、それを防がなきゃならない」
「え? 防ぐ方法なんてあるんですか?」
「あるよ。僕には無理だけどね。――さ、座って」
蘇芳が鏡台を手で示して、にっこり笑う。
私はその前に正座して、鏡越しに蘇芳を見た。
「つまり、それをやってくれる人に会いに行くってことですか?」
「人じゃないけれどね。そういうことだよ」
なるほど。それでこの着物なのか。納得した。
蘇芳が私の髪を櫛で丁寧に梳る。その手つきはとても丁寧で優しい。
「蘇芳って、かなり砕けた話し方しますよね」
「え? 君が言い出したんだけど? 敬語はもういいって」
「いや、そういう意味じゃなくて。ええと……平安時代の人なのに、私たちと変わらない話し方だなって思って……」
「平安時代の鬼(ヽ)だけどね」
「……元・人間なんだから、人で合ってるじゃないですか」
「そう言うのは、君ぐらいだよ」
鏡台の上にあった小さなガラス瓶へと手を伸ばしながら、蘇芳が苦笑する。
そして、そのガラス瓶の中の髪油を少量私の髪にもみ込み、さらに櫛を入れる。
「でも、そりゃそうだよ。平安時代のままの話し方をしていたら、おそらく言ったことの半分も理解してもらえないよ。いくら姿が好ましく見えていたって、およそ普通じゃない話し方をする相手を信頼できるかい?」




