最後の言葉
その夜は、激しい大雨だった。
『灰の揺り籠』に降る雨は、空気中の煤煙を巻き込んで黒く濁り、巨壁を伝って滝のように地面へと流れ落ちていた。叩きつける雨音が宿舎の屋根を激しく打ち鳴らし、すべてのかすかな音を掻き消していく。
トントン。
レンは壁を叩いた。しかし、いつもならすぐに返ってくるはずの、あの微かな応答がなかった。
「ミオ……?」
嫌な予感が胸を過る。レンは跳ね起きると、見張りの兵士が雨宿りで持ち場を離れている隙を突き、廊下を忍び足で進んで女子部屋の歪んだ木扉を押し開けた。
部屋の隅、擦り切れた毛布に包まれたミオは、驚くほど小さく見えた。
レンが駆け寄り、その肩に手をかけると、伝わってきたのはゾッとするほどの冷たさだった。
「ミオ! しっかりしろ、ミオ!」
「……れん……?」
声をかけると、彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと、その大きな瞳を開いた。だが、かつてあれほど澄んでいた瞳は、今はひどく濁り、焦点を結ぶことすら難しそうだった。彼女の呼吸は浅く、喘ぐように細い。
「レン、なの……? 暗くて、よく見えないや……」
「俺だ、ここにいる。ミオ、手を握ってくれ」
レンが差し出した手を、ミオの震える細い指がかすかに握り返した。驚くほど力がない。彼女の命の灯火が、今まさに消えかけようとしているのを、レンは皮膚を通じて痛いほどに感じ取ってしまった。
「ねえ、レン……。私ね、もうすぐ……あの海に行ける気がするの」
「何を言ってるんだ! 一緒に行くんだろ! 約束したじゃないか!」
レンの目から涙が溢れ、ミオの頬へと滴り落ちた。黒い雨ではなく、透明な、温かい涙だった。
「ごめんね……一緒に、行けなくて……。でも、私の夢はね、もう叶ってるんだよ」
「叶ってる……? 何も見てないじゃないか、外の世界なんて!」
ミオは最期の力を振り絞るようにして、優しく、本当に愛おしそうに微笑んだ。
「レンが……私の代わりに、見てきてくれるから。レンが海を見て、綺麗だって思ってくれたら……それが、私の、本当の夢だから……」
「ミオ、嫌だ! 行くな! 俺を一人にしないでくれ!」
レンは彼女の身体を強く抱きしめた。
しかし、彼の必死の叫びも、夜の激しい雨音にかき消されていく。
「……世界は、きっと金色だよ、レン……」
それが、彼女の最後の言葉だった。
ミオの身体から、すうっと力が抜けていく。握られていた手のひらが、冷たい床へと滑り落ちた。
「ミオ……? ミオ!!」
どれだけ呼んでも、その胸が再び上下することはなかった。
レンは冷たくなっていく少女の亡骸を抱きしめたまま、声を上げて泣き続けた。激しい雨の音だけが、彼の孤独な慟哭を静かに包み隠していた。




