彼女の末路
全身が軋むようだ――と思ったのはつい先程か、それとも随分と前か。
伸ばした手はしかし空を掻き、何かを掴む事はない。長い時間、落下し続けているような感覚。
あぁこれは終着点で惨めで不様に潰れて終わるんだろうなと、既に理解してしまっている。希望は無い。絶望に染まっていっそ気絶してしまえば楽に終われるはずなのに、けれど意識はハッキリとしていて。
死ぬ間際に見るらしいと聞く走馬燈とやらも見える事はない。ならば死なないのだろう、なんて楽観的に考えるには現状を把握してしまっていて。
トルテは諦めたようにただ、上を見ていた。
景色と呼べるものはない。暗い空間をただひたすらに落下していく。遥か上の方にあるはずの空は見えない。上下左右どこを見ても真っ暗だった。
終わりは唐突だったように思う。見るべきものもなかったためか、途中で退屈しすぎて意識があらぬ方向へ旅立つところだったが思っていたような落下時の衝撃はなかった。おかげで身体は痛みこそあれどどこかが潰れたりだとか、破裂したりだとかといった事はない。むしろぽよん、と弾力のある何かに受け止められた。
どこを見ても真っ暗だったはずが、いつの間にか色々な物が目に映っている。石材の壁、一定の距離ごとに設置されている青白い炎の松明。そして天井。
「えぇ……?」
天井だ。何度見ても天井である。落ちてきたはずのそこにあるのは天井だった。
ならば自分は今どこから落ちてきたというのだ、と当然の疑問が浮かぶが答えはでない。一体どういう事かしら、と疑問はあるが考えても仕方のない事に悩んで時間を費やすのも面倒になってきた。
起き上がろうとして手をついて――そこで最も早く気付くべきだった事に気付く。
天井や壁は石材だというのに、床のこの柔らかさは一体なんなんだ、と。
嫌な予感しかしないがトルテは誰にも気取られないようにそっと視線を床があるはずの部分へと向けた。自分の手が見えるが、その下には透明なゼリーのようなものがある。柔らかいのは明らかにこれだ。全身を優しく包みこむようにして受け止めたそれをじっと見る。理解したと同時に身体が痛いという事を気にする余裕もないままに飛び起きて転がるように距離を取る。部屋の半分程に広がっていたそれから降りると、当然ながら固い床の感触がある。地面の素晴らしさを今なら讃える事もできる……! とルリあたりがいたならば、とても残念な目を向けてきそうな事を思いつつもトルテの視線はそれを凝視していた。
ここがどこかはわからないが、小部屋と言っていい程度の広さの空間である。
その半分程を占領するかのようにあるのは、巨大なスライムだった。運が悪ければ落下と同時にあの体内に取り込まれていたかもしれない。
スライムといってもいくつかの種類がある。このスライムは至って普通のスライムのようだ。大きさがちょっと一般的なサイズからかけ離れてはいるが。
「参ったわ……こういうの得意じゃないのに」
ぷにぷにボディを見上げつつ、忌々しいとばかりに舌打ち。トルテが得意なのはあくまでも自らの身体強化であり、圧倒的な力で相手を粉砕するという方法だ。大きさが通常サイズであるなら踏みつぶして核を粉砕という対処もできるが、大きさが尋常じゃないこれは踏みつぶすのも難しい。
むしろ上に乗ったら今度こそ体内に取り込まれてしまうのでは? とすら思える。
側面から殴り掛かるにしても拳が取り込まれる未来しか見えない。
「……仕方ない。やるしかないのよね」
万全の状態でもあまりやりたくないが、身体のそこかしこが傷む現状だともっとやりたくない。しかし見えてしまったのだ。スライムの身体の向こう側にこの小部屋から唯一出られるであろう通路が。
「自爆特攻とか、柄じゃないのだけれど」
トルテ・ファンデミリオン。得意なものは自己の身体強化。苦手なものは一般的な魔術に該当する術全般。
直後、小部屋そのものが崩壊するのでは、と思える程の爆発でスライムは跡形もなく蒸発した。
あれほどの術の威力なのだから、もっと上手に制御できればと思った事は何度もある。けれど何をどう頑張っても制御できた試しがないのだ。身体強化以外の術はそのどれもが暴発する。自滅するかのように自分だけが痛い思いをするのはまだいい。本当は全然良くないけど。
けれど場合によっては周囲の味方も巻き込むので、トルテは身体強化の術だけで戦う事を余儀なくされた。着ていた服は政府で布も糸も厳選された物で作られていたのでスカートの裾がちょっと焦げただけで済んだ。そうじゃなければこんなわけのわからない場所で危うく全裸徘徊をするところだった。酒をしこたま呑んでいたとしても遠慮したい事態だ。
身体能力の強化には自然治癒力の強化が含まれていないので、術を暴発させた時に庇った顔はともかく両手が火傷してヒリヒリと痛んだが、この程度で済んで良かったというべきか。
兎にも角にも道は開けた。ルリが言っていた地下にあるダンジョンとやらなのだろう、とは漠然とトルテ自身も把握していたが聞いていた話と微妙に違う気がして本当にそうなのかとすら思うものの。
目の前に飛び出してきたゴブリンを蹴飛ばした際、壁に激突して死んだようだが死体が消えてそのかわりとばかりにドロップアイテムが出現したのでやはりダンジョンなのだろう。
となるとここは今一体何階層なのか。ルリの話だと一定の階層ごとにボスらしきものがいる部屋があり、それを倒せばその先の小部屋にある転送装置から脱出できたとの事だが……
「それってつまり倒せなかったら脱出できない、って事なのよね……」
ダンジョンの中の時間経過は外と比べて遅いらしいとも聞いたけれど、それは今のトルテにとっては不利でしかない。空腹状態で集中力が切れる程度ならまだ可愛らしいものだが、時間の経過が遅いというのは今のトルテにとって自然治癒に頼れないという事でもある。
浅い階ならば多少の手傷があってもまだボスを倒せるだろうな、とルリの話から判断したもののここがどのあたりになるのかわからない以上、なるべくなら怪我もある程度回復させてから臨みたい。スライム(ただし大きさは規格外)やゴブリンと今の時点で出会った魔物からそこまで深い所ではないのでは、と思ったが楽観的にもなれない。
倒せる範囲で魔物を倒して上手い具合にポーションあたりがドロップすればどうにかなるだろう、と思ってはいるが期待はできない。とにかく進んで、ここがボスのいる階層ならそれを倒すまでだし、そうじゃなければ更に潜らなければならない。
「あぁ、めんどくさい……」
どうやらトルテが落ちてきた階層はボスのいる階ではなかったらしく、更に下へ行く階段があった。階段を降りると上へ行く階段は消えて、嫌でも先に進むしかなくなってしまう。
前の階と同じような構造のダンジョンを進み、ふと聞こえた物音に足を止めた。
ずる……ずる……と明らかに何かを引きずっているような音。どこから聞こえてくるのかと音の発生源を探り、それがすぐ近くであるという事実にトルテは咄嗟に壁に身体をつけて元々抑えていた気配を更にしっかりと殺した。曲がり角の向こう側からは特に魔物の気配も感じられないが、音はしている。そっと角から顔だけを出して覗き込むと、四つ足の獣が歩いているのが見えた。
爪がないのかそれとも猫のようにしまえるタイプなのか……よくわからなかったが、肉球ならば足音もそうしないのだろう。あんなのといきなり遭遇してなくて良かったわ、と内心で思いつつ目をそらしたい部分にしぶしぶ目を向ける。獣の口に咥えられているのは人の足だった。その足から先は地面に向かって伸びていて、上半身が獣が移動すると共に引きずられている。
音の発生源は間違いなくこれだ。
引きずられているのは女だった。長い金色の髪が無造作に引きずられていたせいか、随分と汚れている。獣は足を食いちぎるつもりはないのか咥えているだけのようだが、それでも牙が刺さっているのか足からは血が流れていた。顔面も引きずられているせいか、時折小さな呻き声が聞こえる。白いワンピースは血で汚れ、更には引きずられたせいで土埃だとか砂利だとかで更に汚れたのだろう。
(あれは……ラルカ、確かメイとか言ってたやつよね……え、あれも落ちてきたの?)
同じ穴から落ちたであろうはずなのに、トルテが落下していた時にそんなものは見えなかった。ホントこの空間どうなってるの? と疑問を口にしたい衝動に駆られたが今声を出せばあの獣が気付くだろう。
あれは餌になるのだろうか。助けるつもりはない。助けたところで次に危ないのは自分なのだから。正直今の状態であの獣と戦うのも自分にとっては得にもならない。やり過ごせるならそうするべきだ。
かつんかつんと別方向から靴音が響く。音からしてトルテの居場所が気付かれる事はないだろうけれど、獣はそれに気づいたようだ。じっと音のする方を凝視している。しばらくして現れたのは、金色の髪をした一人の青年だった。
「意気揚々と出てったわりに酷い有様だな。生きてるか?」
「ぅ、ぁい」
「しぶといな」
青年は呆れたように言うと足でメイの身体を蹴飛ばした。痛めつけようと思って蹴ったというよりは、うつ伏せになっていたメイを引っくり返しただけなのだろう。獣に足を咥えられている状態でそんな事をされたため、メイの口からはくぐもった声が漏れ出た。
「うわ、随分酷い顔だな。……治すのも手間だし。いいぞ、くれてやる」
「っえ、ま、まって……」
しゃがれた声ではあったがメイが青年に向かって何かを言おうとする。助けを求めるように伸ばされた片手はしかし次の瞬間勢いよく床に叩きつけられる事になる。
ごりっ、という音は獣の口から聞こえてきた。
「あ、あ゛あ゛あぁぁっ!?」
あまりの痛さに伸ばしていた手を振り回した結果、激しく床に叩きつける事になったようだがそれ以上に獣にかみ砕かれた足の方が痛むのだろう。身体を跳ねさせ何とか逃れようともがいてそれが叶った時には、メイの片足は自分の身体から離れた後だった。血の匂いが周囲に漂い始める。
別に今更あの程度のものなら見慣れてはいるが、トルテは顔をそむけるようにして隠れた。ちらっと見えたが青年の目も金色だった。メイとの会話から知った仲であろうというのはわかるし、彼がラルカであってもおかしくはない。何故こんな所にいるのかという疑問は残るが。
足音を立てないように速やかにこの場から離れる。血の匂いに釣られて他の魔物が近寄って来た時、トルテがいる方向から魔物がきたならば交戦は避けられず、そうなればあの青年に気付かれるのは明らかだったからだ。
獣は青年の言葉に従っていた。となれば、気付かれたが最後青年とあの獣を相手に戦う事になるわけで。
流石に今のトルテにとってそれは非常に分が悪い。
苦痛にあがるメイの悲鳴らしき声を背に、トルテはとにかくこの場から遠ざかる事にのみ全力だった。
だからこそ、彼女は知らない。
「あんまがっついて腹壊すなよ……俺はまぁ、そうだな。ウサギ狩りにでも行ってくるか」
青年がトルテの存在に気付いていた事に。もっとも、それを知っていたとしても事態に何の変わりもなかっただろうけれど。
かくして、トルテの長い長いダンジョン探索が開始されたのである。




