第5話 すべてを失った者と、歩き出す俺
校長夫妻が逮捕されてから、数週間が経った。
世間では、連日のように事件が報道されていた。
学校のいじめ問題。
教師たちによる不適切な対応。
校長による隠蔽疑惑。
そして、学校関係の資金をめぐる不正事件。
最初は、一人の生徒が受けたいじめの告発だった。
しかし、調査が進むにつれて、問題は学校全体へと広がっていった。
俺が受けた被害をきっかけに、これまで表に出てこなかった問題が次々と明らかになったのだ。
そして今日。
学校から、重大な発表があると連絡が届いた。
俺は、黒田さんと一緒に、その発表を見届けることにした。
***
学校の体育館には、教師たちと生徒、そして保護者が集められていた。
いつもなら、騒がしい声が響いている場所だ。
けれど、今日は違った。
誰もが不安そうな顔をしている。
壇上には、校長の代理として学校運営を引き継いだ責任者が立っていた。
その表情は、ひどく険しかった。
「本日は、皆さんに重要なお知らせがあります」
マイクを通した声が、体育館に響く。
「現在、本校では、いじめ問題への対応、学校運営上の管理体制、ならびに会計処理に関する重大な問題が確認されています」
会場のあちこちから、ざわめきが起こった。
「これまで、関係機関による調査を進めてまいりました。しかし、問題は一部の個人だけにとどまらず、学校全体の管理体制にも及んでいることが明らかになりました」
責任者は、一度言葉を切った。
「そのため、運営法人および関係機関との協議の結果、本校は今年度をもって閉校することが決定いたしました」
一瞬。
体育館から、音が消えた。
「……え?」
誰かが、小さく声を漏らした。
「閉校って……この学校が?」
「じゃあ、俺たちはどうなるんだよ……」
生徒たちの間に、動揺が広がっていく。
責任者は、深く頭を下げた。
「在校生の皆さんについては、転校先の調整や学習の継続に必要な支援を、関係機関と連携して進めてまいります。皆さんの学ぶ権利が損なわれないよう、最後まで責任を持って対応いたします」
それでも、会場のざわめきは収まらなかった。
当然だろう。
自分たちが通っていた学校が、なくなるのだから。
俺は、その光景を静かに見つめていた。
学校が閉鎖される。
あれほど多くの時間を過ごした場所が、なくなる。
けれど、俺の胸に浮かんだのは、喜びでも悲しみでもなかった。
ただ、これで本当に終わるのだと思った。
俺が助けを求めても、誰も動かなかった学校。
被害を訴えた俺ではなく、加害者を守ることを選んだ学校。
その学校が、ようやく自分たちの行いの責任と向き合うことになったのだ。
もちろん、学校が閉鎖されたからといって、すべてが解決するわけではない。
そこで学んでいた生徒たちには、これからの生活がある。
何も知らず、ただ学校に通っていただけの生徒だっている。
だからこそ、俺は思った。
この出来事を、ただの終わりにしてはいけない。
同じことが、別の場所で繰り返されないように。
俺が受けた苦しみが、無意味なものにならないように。
そう願わずにはいられなかった。
***
発表が終わり、体育館を出たところで、俺は一人の教師に呼び止められた。
「……神谷くん」
振り返ると、佐々木先生が立っていた。
以前よりも、ずっとやつれて見えた。
「少し、話をしてもいいかな」
俺は黙ってうなずいた。
先生は、しばらく言葉を探していた。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「本当に、申し訳なかった」
その声は震えていた。
「君が何度も助けを求めていたのに、私は何もしなかった。桐生くんの母親が校長だったことを恐れて、自分の立場を守ろうとしたんだ」
先生は、顔を上げなかった。
「教師として、あってはならないことだった。君がどれほど苦しんでいたのか、今になってようやく理解した。本当に……すまなかった」
俺は、先生を見つめた。
以前なら、謝ってほしいと思っていたのかもしれない。
どうして助けてくれなかったのか。
どうして俺の声を無視したのか。
その答えを、何度も求めていた。
けれど、今は違った。
「……先生」
俺は、静かに口を開いた。
「謝ってくれたことは分かりました」
先生が、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、俺が受けたことは、謝られたからってなくなるわけじゃありません」
「……ああ」
「これから先、先生がどうするのかは、先生自身が決めてください」
俺は、そこで言葉を切った。
「ただ、もう二度と、助けを求めている人を見捨てないでください」
佐々木先生の目に、涙が浮かんだ。
「……約束する」
その言葉を聞いて、俺は小さく頭を下げた。
許したわけではない。
今までのことを忘れたわけでもない。
ただ、これ以上、この人のことを考えて、自分の時間を使いたくなかった。
俺は、前に進みたかった。
誰かへの怒りだけを抱えて生きていくのではなく、自分自身のために生きていきたかった。
だから、もう振り返らないことにした。
***
その日の夕方。
俺は、学校の正門前に立っていた。
何度も通った門。
朝、憂鬱な気持ちでくぐった日もあった。
帰り道、明日が来ることを恐れた日もあった。
ここを通るたび、嫌な記憶がよみがえる。
そんな場所だった。
けれど、今は少しだけ違って見えた。
「……神谷くん」
隣に立つ黒田さんが、俺に声をかけた。
「これで、一つの区切りにはなったね」
「はい」
「ただ、事件の捜査はまだ続いている。校長夫妻の責任についても、これから裁判などを通じて明らかになっていくはずだ」
「分かっています」
俺は、正門を見つめた。
「でも、少なくとも、もう隠されることはないと思います」
「そうだね」
黒田さんは、静かにうなずいた。
「君が声を上げたから、ここまで明らかになった。もちろん、君一人で背負う必要はなかったし、周囲の大人たちがもっと早く動くべきだった。それでも、君が記録を残し、訴え続けたことには意味があったと思う」
俺は、手元のノートに視線を落とした。
そこには、あの日々の記録が残っている。
何をされたのか。
誰に相談したのか。
どんな言葉を返されたのか。
何度も読み返したくないと思った。
いっそ、全部捨ててしまいたいと思ったこともある。
それでも、俺は捨てなかった。
なかったことにされたくなかったから。
自分が受けた苦しみを、誰かに否定されたくなかったから。
「……黒田さん」
「ん?」
「このノート、残しておこうと思います」
「そうか」
「でも、もう毎日読み返すのはやめます」
俺は、少しだけ笑った。
「いつまでも、あのときのことだけを考えていたくないので」
黒田さんは、穏やかな表情でうなずいた。
「それがいい。君の人生は、これからも続いていくんだから」
その言葉を聞いて、俺は空を見上げた。
夕焼けが、街を赤く染めていた。
明日から、何が変わるのだろう。
学校はなくなる。
蓮たちは、それぞれ自分の行いと向き合うことになる。
教師たちも、自分たちがしたことの責任を問われるだろう。
けれど、俺には俺の人生がある。
これから、何を学ぶのか。
どんな人と出会うのか。
どんな未来を選ぶのか。
それは、もう誰かに決められることじゃない。
俺自身が決めていいのだ。
そう思えた。
***
数日後。
桐生蓮に対して、学校側から正式な処分が発表された。
いじめに関する調査結果を踏まえ、校内での重大な問題行為について厳正な処分が下されたのだ。
また、問題を把握しながら適切な対応を取らなかった教師たちについても、個別に調査が進められた。
そして、校長夫妻の事件については、警察による捜査が続いていた。
二人は逮捕された後も、会計処理に関する疑惑について説明を求められているという。
これまで、蓮は自分の立場を盾にしてきた。
母親が校長であること。
父親にも力があること。
周囲の大人たちが、自分のために動いてくれること。
それが、いつまでも続くと思っていたのだろう。
けれど、もう違う。
自分の行いに向き合わなければならない。
誰かの力を借りて逃げるのではなく、自分が何をしたのかを考えなければならない。
それが、これからの蓮に求められることだった。
俺は、蓮のことを考えるのをやめた。
あいつがこれからどう生きるのか。
どんな人生を送るのか。
それは、もう俺が背負うことではない。
俺が受けた苦しみを忘れる必要はない。
無理に許す必要だってない。
ただ、あいつの存在に、自分の未来まで縛られたくなかった。
だから、俺は前を向く。
それでいいのだと思った。
***
さらに数日後。
俺は、新しいノートを買った。
以前使っていたものより、少しだけ明るい色の表紙だ。
机に座り、最初のページを開く。
ペンを持ったまま、しばらく考えた。
これまでのノートには、苦しかったことばかりを書いてきた。
忘れないために。
証拠を残すために。
自分の声を、なかったことにされないために。
けれど、このノートには違うことを書きたい。
これからやってみたいこと。
行ってみたい場所。
会ってみたい人。
まだ知らない世界のこと。
そして、いつか自分が笑って過ごせるようになったとき、その日々のことも。
俺は、ゆっくりとペンを動かした。
『これから、どう生きていくか』
それが、新しいノートの最初の一行だった。
書き終えた俺は、窓の外を見た。
朝の光が、部屋の中に差し込んでいる。
あの日、学校へ行くことすら怖かった俺は、もういない。
いや、正確には、あの日の俺も、今の俺の中にいる。
傷ついたことも。
苦しかったことも。
誰にも助けてもらえなかったことも。
全部、消えるわけじゃない。
それでも、それらに未来を決めさせる必要はない。
俺は、ノートを閉じた。
そして、立ち上がった。
今日から、少しずつでいい。
自分の人生を、自分の足で歩いていこう。
もう、誰かに奪われたままにはしない。
窓の向こうには、明るい空が広がっていた。
俺は、その光を見つめながら、小さくつぶやいた。
「……今度こそ、前に進もう」
それは、誰かに聞かせるための言葉ではなかった。
自分自身に向けた、決意の言葉だった。
こうして、俺の学校での戦いは終わった。
けれど、俺の人生は、ここで終わるわけじゃない。
むしろ、ここから始まるのだ。
――今度こそ、自分のために生きる人生が。




