第4話 もう誰も、お前を守らない
翌朝。
俺のスマートフォンに、黒田さんから再び連絡が入った。
『神谷くん。昨日話した件で、重要な進展があった』
そのメッセージを見た瞬間、胸の奥がざわついた。
校長夫妻について、何か新しい事実が判明したのだろうか。
俺はすぐに返信した。
『何が分かったんですか?』
返事は、すぐに届いた。
『今日、会って直接説明する。できれば午前中に時間を作ってほしい』
俺は短く了承し、指定された場所へ向かった。
***
待ち合わせ場所に着くと、黒田さんはすでに席に座っていた。
テーブルの上には、分厚いファイルとノートパソコンが置かれている。
「来てくれてありがとう」
「それで、何が分かったんですか?」
黒田さんは一度周囲を確認してから、ファイルを開いた。
「学校の会計に関する資料だ。複数の関係者から情報提供があって、過去の支出記録と照合できた」
「支出記録……?」
「ああ。学校の運営に使われるはずの金が、実際には別の用途に流れていた疑いがある」
黒田さんは、資料の一枚を俺の前に置いた。
そこには、学校関連の業務を請け負った会社の名前と、支払われた金額が記載されていた。
「この会社、学校の設備工事を請け負っていることになっている。ところが、記録を確認すると、契約内容と実際の作業に食い違いがあるんだ」
「それって……」
「架空の工事や、実際の金額を水増しした契約があった可能性がある。さらに、その会社と校長の夫には、以前から取引関係があった」
俺は息をのんだ。
「つまり、学校のお金を……?」
「不正に流用していた可能性がある。もちろん、最終的な判断は捜査機関がすることになる。ただ、複数の記録が一致している以上、見過ごせる話じゃない」
黒田さんは、もう一枚の資料を取り出した。
そこには、支出を承認した人物の名前が並んでいた。
その中に、校長の名前もあった。
「校長は、これらの支出を承認していた。夫が関係する会社に金が流れていることを、本当に知らなかったのか。それも調べる必要がある」
俺は、しばらく言葉が出なかった。
蓮を守るために、俺の訴えを握りつぶした校長。
その裏で、学校のお金まで不正に扱われていたのだとしたら。
俺が学校から追い出されそうになったことも、ただの偶然ではなかったのかもしれない。
「……どうして、ここまでして隠そうとしたんでしょうか」
思わず、そう尋ねた。
黒田さんは少し考えてから答えた。
「一つの問題が明るみに出れば、ほかの問題まで調べられる。そう考えた可能性はある。ただ、動機については証拠を確認しなければ分からない」
彼は、ファイルを閉じた。
「だからこそ、今回は警察に相談する。情報提供だけで終わらせるつもりはない」
「……お願いします」
俺は、深く頭を下げた。
「俺みたいな思いをする人が、もう出ないようにしてほしいです」
黒田さんは、真剣な表情でうなずいた。
「分かった」
その一言を聞いて、俺はようやく息を吐いた。
ここから先は、俺だけの問題ではない。
学校という場所で、誰かが傷つけられ、その声が無視される。
そんなことが二度と起きないようにするためにも、隠された事実を明らかにしなければならなかった。
***
その日の午後。
校長室には、校長夫妻が向かい合って座っていた。
机の上には、教育委員会から届いた追加の調査通知が置かれている。
校長は何度も書類を読み返していた。
「……どうして、ここまで大きな問題になってしまったの」
「今さらそんなことを言っても仕方がないだろう」
夫は苛立った様子で答えた。
「学校の会計まで調べられる可能性がある。あの動画を出した男が、余計なことを掘り返しているんだ」
「でも、もし本当に調べられたら……」
「だから、今は余計なことをするなと言っている」
夫は声を荒らげた。
「これ以上、誰かに話をするな。分かっているな?」
校長は黙ってうなずいた。
そのときだった。
コンコン、と扉がノックされた。
「校長先生、失礼します」
入ってきたのは、学校の事務職員だった。
「お話し中に申し訳ありません。お二人に、お客様がいらっしゃっています」
「誰ですか?」
校長が尋ねると、職員は緊張した表情で答えた。
「警察の方々です」
夫妻の顔から、血の気が引いた。
「……警察?」
夫が立ち上がる。
「何の用だ。学校に警察が来るような問題はないはずだ」
「詳しいことは、直接お話ししたいとのことです」
職員がそう告げた直後、校長室の扉が再び開いた。
数人の警察官が入ってくる。
「校長先生、そしてご主人ですね」
先頭の警察官が、二人を見渡した。
「学校関連の資金について、確認したいことがあります。お話を伺えますか」
「資金だと? 何かの間違いじゃないのか」
夫は、強気な態度を崩さなかった。
「私たちは、正当な契約に基づいて仕事をしている。何も問題はない」
「その点も含めて確認させていただきます」
警察官は落ち着いた声で答えた。
「関連する契約書、支出記録、送金記録などについて、捜査を進めています。すでに複数の関係者から話を聞いており、資料との照合も行っています」
校長は、震える手を机の下で握りしめた。
「……私は学校のために働いてきました。生徒たちのために、ずっと……」
「その点についても、お話を伺う必要があります」
警察官は、手元の書類を確認した。
「学校の会計処理について、不自然な支出が複数確認されています。校長先生が承認した記録も残っています」
「それは……!」
校長の声が裏返った。
「私は、詳しいことまでは……」
「では、なぜ承認したのか。契約内容を確認していたのか。その点を説明していただくことになります」
校長は口を閉ざした。
夫が割って入る。
「待て。妻は学校の責任者だ。会計の細かいことまですべて把握しているわけがないだろう」
「ご主人にも確認したいことがあります」
警察官は、別の書類を取り出した。
「学校関連の業務を請け負った会社との取引についてです。実際の業務内容と契約書に記載された内容に食い違いがある。さらに、学校から支払われた金の一部が、ご主人の関係する口座へ移動している記録も確認しています」
夫の表情が変わった。
「……何を根拠にそんなことを」
「すでに確認できている記録に基づいています。詳しい点については、これから捜査を進めます」
「そんなもの、何かの間違いだ!」
夫が声を荒らげた。
だが、警察官たちは動じなかった。
「その点も含め、説明していただきます」
校長は夫を見た。
夫も校長を見た。
二人の視線が交差する。
そこにあったのは、互いを信じる気持ちではなかった。
自分だけは助かりたい。
そんな思いが、互いの表情から透けて見えていた。
***
数時間後。
警察署では、夫妻に対する事情聴取が続いていた。
最初、二人は不正を否定していた。
契約は正当だった。
会計処理は担当者に任せていた。
自分たちは詳しいことを知らなかった。
そう繰り返していた。
しかし、警察が提示した資料は、二人の説明を少しずつ崩していった。
契約書に記載された工事内容と、実際の作業記録の食い違い。
実際の金額を大きく上回る請求。
複数の口座を経由した送金。
そして、その支出を承認した校長の署名。
さらに、学校の会計を担当していた元職員からも、重要な証言が得られていた。
不自然な支出について確認した際、上から処理を進めるよう指示されたこと。
疑問を口にした職員が、担当から外されたこと。
記録の一部について、説明を求めても回答が得られなかったこと。
一つ一つの事実が積み重なっていった。
「……私は、夫に言われたとおりにしただけです」
校長が、ついに口を開いた。
「私は詳しいことは知りませんでした」
その言葉を聞いた夫が、勢いよく顔を上げた。
「おい! 何を言っている!」
「だって、あなたが……!」
「黙れ!」
二人の言い争いが始まった。
だが、警察官は冷静に告げた。
「お二人の説明は、これまでの記録や証言と一致していない部分があります。引き続き、慎重に確認を進めます」
その時点で、夫妻はまだ理解していなかった。
これまで、自分たちがどれほど多くの人間を黙らせてきたのか。
そして、今度は自分たちが、記録と証言によって追い詰められる側になったのだということを。
***
翌日。
俺は、自宅で黒田さんからの連絡を待っていた。
スマートフォンが震えたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
『神谷くん。警察から正式な発表があった』
その文章を見て、俺の指先が止まった。
続けて、ニュース記事のリンクが送られてくる。
そこには、信じられない見出しがあった。
学校関係の資金を不正に処理した疑い 校長と夫を逮捕
俺は、息をのんだ。
記事によれば、学校関連の契約をめぐって不正な会計処理が行われ、学校の資金の一部が私的に流用された疑いがあるという。
警察は、校長とその夫が関与した可能性が高いと判断し、二人を逮捕した。
事件については、今後も捜査が続けられる。
俺は、記事を最後まで読み終えた。
校長。
蓮の母親。
俺の訴えを握りつぶし、学校の中で何が起きていたのかを隠そうとした人。
その人が、今度は自分自身の行為について、責任を問われることになった。
しばらくして、再びスマートフォンが震えた。
黒田さんからだった。
『まだ捜査は続く。これで全部が明らかになったわけじゃない。でも、もう簡単に隠せる状況ではないはずだ』
俺は短く返信した。
『ありがとうございます』
それ以上、何を書けばいいのか分からなかった。
嬉しいのか。
悔しいのか。
それとも、ようやく終わりが見えてきたことに安心しているのか。
自分でも、よく分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
俺の訴えは、無駄ではなかった。
***
その頃、学校では緊急の職員会議が開かれていた。
校長が逮捕され、夫も同じ事件で逮捕された。
学校の運営を担っていた人間が、そろって不在になったのだ。
さらに、いじめを把握しながら適切な対応を取らなかった教師たちにも、厳しい目が向けられていた。
会議室では、教師たちが沈痛な面持ちで座っている。
その中で、佐々木先生は机の上に置かれた資料を見つめていた。
何度も思い返していた。
俺が相談に来たときの顔。
震える声。
助けを求める目。
それなのに、自分は何をしたのか。
面倒なことになるのを恐れ、校長の息子だからという理由で、見て見ぬふりをした。
「……私は、教師失格だ」
誰にも聞こえないほどの声で、そうつぶやいた。
けれど、後悔したところで、時間は戻らない。
俺が受けた苦しみも、消えない。
今、教師たちが向き合わなければならないのは、その事実だった。
そして、学校の問題は、いじめだけでは終わらなかった。
会計に関する資料の一部は、すでに捜査機関によって確認されている。
学校の運営体制そのものについても、調査が必要になっていた。
この学校が、これからも今までどおりに続いていけるのか。
誰も、答えを出せずにいた。
***
その夜。
俺は机に向かい、ノートを開いた。
そこには、これまでの出来事が記録されている。
いつ、何をされたのか。
誰に相談したのか。
どんな言葉を返されたのか。
忘れないために。
なかったことにされないために。
そう思って、書き続けてきた。
けれど、今は少しだけ違う。
俺はペンを持ち直し、最後のページに一行を書き加えた。
『俺は、もう一人じゃない』
その文字を見つめていると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
まだ、すべてが終わったわけではない。
蓮への処分も決まっていない。
学校がどうなるのかも分からない。
それでも、今までのように、何もかもを一人で抱え込む必要はないのだと思えた。
窓の外では、街の明かりが静かに輝いていた。
俺はノートを閉じた。
明日、何が起きるのかは分からない。
けれど、もう逃げない。
自分の人生を、誰かに奪わせたりしない。
そう心に決めた。
そして翌朝。
黒田さんから、最後の連絡が届いた。
『神谷くん。学校の運営についても、大きな動きがありそうだ。近いうちに正式な発表があると思う』
俺は、そのメッセージを読み終え、静かにスマートフォンを置いた。
校長夫妻の逮捕。
蓮への処分。
教師たちの責任。
そして、学校そのものの未来。
すべてに、決着がつこうとしていた。
――あと一つ。
この学校が、最後に何を選ぶのか。
俺は、その答えを見届けることにした。




