第四十一話 ザイルの最後
ザイルは森の中をふらつきながら進んでいた。右肩はまともに動かず、胸から脇腹にかけて走る傷からは、押さえていても血が滲み続けている。身体強化を使えば多少は動けるが、そのたびに全身へ鋭い痛みが走った。
「くそ……あのジジィ……」
何度吐き捨てても、頭から剣一郎の姿が離れない。
魔力を感じない。身体強化も使っていない。それなのに、自分の動きを見切り、最後には剣まで弾き飛ばした。
「あり得ねえだろ……」
魔族であるザイルにとって、強さと魔力は切り離しにくいものだった。もちろん剣術や経験が重要なのは知っている。それでも、魔力量が多く、身体強化を使える者ほど戦いでは有利になる。それが当たり前だった。
だからこそ、剣一郎は理解できない。
「次は……殺す」
そう口にしたものの、自分でもその言葉に力がないことは分かっていた。
今はまず傷を治さなければならない。
ザイルは森の奥へ進み、やがて小さな沢へ出た。そこからさらに北へ向かえば、自分を助けた連中と接触するために教えられた場所がある。
仕事を終えたら戻れ。
そう言われていた。
成功しようが失敗しようが、まずは合流しろとも。
「……失敗したくらいで文句言わせるかよ」
ザイルは口元を歪める。
「魔物は街まで連れてった。門もぶっ壊した。十分だろ」
それに、自分にはまだ価値がある。
強い。
戦える。
人間が自分ほどの戦力を簡単に捨てるとは思えなかった。
そう考えながら、ザイルはさらに森の奥へ進んでいった。
◇
街では、ようやく戦いが終わろうとしていた。
「残りは東へ逃げた!」
「追いすぎるな! 門の守りを優先しろ!」
騎士の声が飛ぶ。
ザイルが逃げた後、魔物たちの動きは急速に乱れた。先ほどまで同じ方向へ押し寄せていた群れが、それぞれ勝手に逃げ始めたからだ。ゴブリンは森へ散り、ウルフも数頭ずつ別方向へ逃げていく。
黒い魔道具を持つザイルがいなくなったことで、統率が失われたのだろう。
「無理に追わなくていい!」
クラウスが騎士たちへ声をかける。
「まず負傷者を!」
「分かった!」
フィアも弓を下ろし、周囲を見渡した。
「ボルグ!」
「こっちは大丈夫だ!」
馬車の前では、ボルグが大盾を地面へ下ろしている。セレナたちにも大きな怪我はない。
美咲はすでに門の近くで治療を始めていた。
「次の人を!」
「こっちだ!」
肩を斬られた衛兵。
火傷を負った騎士。
魔物に脚を噛まれた者。
美咲は順番に傷を確認し、必要な者へ治癒魔法を使っていく。ただし、全員へ同じように魔法を使うわけではない。浅い傷なら洗浄と包帯で済ませ、出血が多い者や深い傷を優先していた。
「美咲、大丈夫か?」
悠真が尋ねる。
「まだ平気。でも魔力は使いすぎないようにする」
「分かった。運ぶのは俺がやる」
悠真は負傷者を支え、治療を受けられる場所まで運んでいった。
少し離れたところでは、剣一郎が肩へ布を当てられている。
「もう動いてよいか?」
「駄目です」
美咲は振り向きもせず即答した。
「治療は終わったぞ」
「傷が塞がっただけです」
「身体は動く」
「だからってすぐ動かないでください」
「……そうか」
剣一郎が大人しく座る。
その様子を見ていた悠真が笑った。
「やっぱり美咲には弱い」
「聞こえておるぞ」
「聞こえるように言ったから」
「あとで覚えておれ」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、クラウスの表情は険しいままだった。
「神崎さん」
「何じゃ」
「さっきの男……ザイルでしたか」
「ああ」
「確かに言いましたよね。『この街を好きに壊していいと言われた』と」
「言っておったな」
「つまり、誰かに依頼された」
「そう考えるのが自然じゃろう」
クラウスは破壊された門を見る。
「しかも魔物を率いる道具まで持っていた」
「普通の犯罪者が持っているとは考えにくいね」
フィアも会話へ入った。
「ザイル自身が作った可能性は?」
「低いと思う」
クラウスが答える。
「あの男は、魔道具を作るタイプには見えなかった」
「見た目で判断はできないけどね」
「それはそうだ」
剣一郎は黙って二人の話を聞いていた。
「ザイルは依頼主の顔も名も知らぬと言っておった」
「そこも気になります」
クラウスが腕を組む。
「徹底して正体を隠していたなら、最初から使い捨てるつもりだった可能性もある」
剣一郎の目が僅かに細くなる。
「あり得るの」
「追跡を出しますか?」
フィアが尋ねる。
クラウスは少し考えた。
「すぐには出せない。街の防衛が先だ」
「同感じゃ」
剣一郎も頷く。
「逃げた者を追って、残った者が危険に晒されては本末転倒じゃ」
「ただ、完全に諦めるつもりはありません」
クラウスは近くの騎士へ声をかける。
「ザイルが逃げた方向だけでも記録しておいてくれ。血痕が残っているなら、後で追えるかもしれない」
「分かった」
騎士が頷く。
剣一郎は、ザイルが消えた森の方角を静かに見つめた。
◇
その頃。
ザイルはようやく合流地点へ辿り着いていた。
森の奥にある、崩れかけた石造りの小屋。
人が長く使っていないように見える場所だったが、自分を助けた男から「戻る時はここへ来い」と言われている。
「……おい」
ザイルは扉を蹴るようにして開けた。
「いるんだろ!」
返事はない。
薄暗い室内には、古い机と椅子があるだけだった。
「ふざけんな……」
壁へ手をつく。
血が床へ落ちた。
「さっさと出てこい!」
「随分、派手にやられたようだな」
背後から声がした。
ザイルが振り返る。
一人の男が扉の横に立っていた。
暗い外套。
深く被ったフード。
以前、自分を助けた者たちと同じ格好。
「遅えんだよ」
ザイルは苛立った声を上げる。
「治療しろ」
「仕事は?」
「見りゃ分かるだろ」
「失敗か」
「門は壊した。魔物も街まで連れてった」
「街は落としていない」
「うるせえな!」
ザイルが睨みつける。
「あんな化け物みてえなジジィがいるなんて聞いてねえぞ!」
「老人?」
「ああ。魔力もねえくせに、俺を――」
そこまで言って、ザイルが口を閉じた。
男の様子がおかしい。
驚いていない。
失敗を責めるでもない。
治療を急ぐ様子もない。
「……おい」
ザイルの目が細くなる。
「何で治療の準備をしてねえ」
男は答えなかった。
その代わり、外套の中へ手を入れる。
ザイルの表情が変わった。
「てめえ……」
「役目は終わった」
静かな声だった。
「は?」
「街を襲い、魔物を率い、人々の前で自ら魔族と名乗った」
「……」
「それで十分だ」
ザイルの顔から血の気が引く。
「最初から……」
男は何も答えない。
だが、その沈黙だけで十分だった。
「最初から俺を使い捨てるつもりだったのか!」
ザイルが左手で剣を抜こうとする。
右腕はまだまともに動かない。
「舐めやがって!」
痛みに顔を歪めながらも踏み込む。
傷ついているとはいえ、ザイルは魔族の中でもかなりの強者だった。並の相手なら、この状態でも簡単には殺されない。
だが。
「遅い」
横から別の声がした。
「何――」
ザイルの脇腹へ強烈な衝撃が走った。
「ぐっ!」
気づいた時には、もう一人いた。
物陰から現れた二人目の外套姿が、細身の刃をザイルの脇腹へ突き立てている。
「てめえら……!」
ザイルが肘を振る。
二人目が離れる。
すぐに一人目へ剣を振るった。
「死ね!」
刃が外套を掠める。
相手はぎりぎりでかわした。
「まだこれだけ動くか」
「俺を誰だと思ってやがる!」
ザイルが吠える。
魔力を無理やり身体へ流す。
全身が軋む。
剣一郎につけられた傷が開き、さらに血が流れた。
それでも最後の力を振り絞り、小屋から飛び出し、二人に応戦する。
一人へ斬りかかり、もう一人の攻撃を蹴りで弾く。
「雑魚が!」
ザイルの剣が一人の肩を浅く斬った。
「俺を殺したきゃ、もっとマシなのを――」
言葉が止まった。
左脚が崩れる。
「……あ?」
膝をつく。
手に力が入らない。
「何だ……これ」
刺された脇腹を見る。
傷は深くない。
それなのに、身体が動かない。
「毒……?」
「魔族には効き目が薄いのか」
外套の男が答える。
「それでも動きを止める程度は効果があったようだな」
「てめえ……!」
ザイルが剣を持ち上げようとする。
腕が震える。
上がらない。
「卑怯……だとでも言うか?」
男が尋ねる。
ザイルは笑った。
「は……」
血を吐く。
「そいつは俺の専売特許だ……」
男は何も答えない。
ザイルは膝をついたまま、二人を睨んだ。
「一つだけ……教えろ」
「何だ」
「てめえら……何者だ」
沈黙。
「最後くらい……いいだろ」
「知る必要はない」
ザイルの顔が歪む。
「最後までそれかよ……」
男が一歩近づく。
ザイルは残った力を振り絞って剣を持ち上げた。
「だったら――」
笑う。
「道連れにしてやる!」
最後の踏み込み。
だが、身体はもうついてこなかった。
剣が空を切る。
直後。
細い刃が胸を貫いた。
「……が」
ザイルの身体が止まる。
刃が引き抜かれる。
血が地面へ落ちた。
ザイルはよろめきながらも、残った左手で暗殺者の腕を掴んだ。
「てめえだけでも……!」
強引に引き寄せ、頭突きを叩き込む。
「ぐっ!」
暗殺者が離れた瞬間、ザイルはふらつきながら後退した。
その背後には、深い谷があった。
一歩。
足元の土が崩れる。
「……くそったれが」
ザイルの身体が崖下へ消えた。
やがて、遥か下から水音が響く。
外套の男が崖際から見下ろした。
「追いますか」
「いや」
しばらく川面を見つめたあと、男は首を振る。
「あの傷と毒だ。まず助からん」
「では」
「戻るぞ。道具だけは回収した」
二人の姿が森の奥へ消えていく。
崖下を流れる濁流には、ザイルの姿はどこにもなかった。




