第三十六話 魔王と叛逆者
時間は、ハルト村が魔物の群れに襲われるよりも前へ遡る。
人間たちが魔王領についてほとんど何も知らず、魔王という存在そのものを恐れていた頃。その魔王領では、一人の男が追われる身となっていた。
男の名は、ザイル。
魔族の中でもかなりの腕を持つ戦士でありながら、その力を己の欲望のために使い続けてきた男だった。
◇
「封印そのものに大きな異常はないのじゃ。じゃが……やはり以前よりマナの流れが乱れておる気がするのう」
レオノーラは山道を歩きながら、小さく首を傾げた。見た目だけなら小柄な少女だが、その真紅の髪と瞳を持つ彼女こそ、現在の魔王である。
魔王領のさらに奥には、古くから立ち入りを厳しく制限されている場所があった。レオノーラは定期的にそこを訪れ、封印の状態を自ら確かめている。今日も数名の護衛を伴って巡回を終え、魔王城へ戻る途中だった。
「魔王様。念のため次回は魔導士も同行させますか?」
「そうじゃな。それがよいかもしれぬ。ただ、今すぐ何か起こるような状態ではないのじゃ。あまり大騒ぎをして皆を不安にさせる必要も――」
レオノーラの言葉が途中で止まった。
先頭を歩いていた護衛の一人が、突然横へ吹き飛ばされたからだ。
「ぐあっ!」
「敵襲!」
声が響くより早く、木々の間から大柄な男が飛び出した。二本の短い角を持ち、身体のあちこちに古傷を刻んだ魔族の男。その手には幅広の剣が握られている。
「――死ね、レオノーラ!」
ザイルの剣が少女の首を狙った。
「な、何をするのじゃ!?」
レオノーラの眼前に魔力の壁が生まれ、刃を受け止める。鈍い衝撃音とともに魔力の膜が揺れ、ザイルは舌打ちして大きく後ろへ跳んだ。
「ちっ。今ので終わらせるつもりだったんだがな」
「ザイル……!?」
護衛の一人が驚愕の声を上げた。
「貴様、何をしている!」
「見りゃ分かんだろ。魔王殺しだよ」
ザイルは悪びれる様子もなく笑った。
彼は魔王領でも知られた戦士だった。辺境の魔物討伐にも幾度となく参加し、その戦闘力だけなら並の兵士が数人束になっても敵わない。それほどの腕を持ちながら、金になるなら密輸も強盗も厭わず、邪魔をする者には平然と暴力を振るう男でもあった。
やがて禁制品の取引を見咎めた兵を殺し、追われる身となった。魔王領に居場所はなくなり、捕まれば重罪人として裁かれる。
そこでザイルが考えたのが、魔王を殺すことだった。
「お主が何をしたかは聞いておるのじゃ。密輸だけではない。捕らえようとした兵まで殺したそうではないか!」
「だから何だ?」
「だから何だ、ではないのじゃ!」
レオノーラが怒鳴る。
ザイルは肩をすくめた。
「俺は牢に入る気なんざねえんだよ。だが、このままじゃどこへ逃げても追っ手が来る」
「それと、わらわを襲うことに何の関係があるのじゃ!」
「てめえが死ねば国中ひっくり返るだろ?」
ザイルの口元が吊り上がる。
「魔王が殺されたとなりゃ、俺一人を追い回してる場合じゃなくなる。その隙に消えりゃいい」
「……そのためだけに、わらわを殺そうというのか?」
「十分な理由だろ」
レオノーラが呆れたように目を見開く。
「お主、本当にどうしようもないのじゃ……」
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
ザイルが地面を蹴った。身体を覆う魔力が一気に膨れ上がり、その姿が視界から消えたかと思うほどの速度で護衛たちへ迫る。
一人が剣を構える。しかしザイルは真正面から打ち合わず、身体を沈めて刃をかわすと、脇腹へ蹴りを叩き込んだ。鎧を着た男の身体が浮き、木の幹へ激突する。
「一人!」
「囲め!」
左右から二人が同時に斬りかかった。
ザイルは片方の剣を自らの刃で弾き、その勢いを利用して身体を回転させる。もう一人の手首を蹴り上げ、武器を落とさせると、そのまま柄頭を顔面へ叩き込んだ。
数度の攻防で、護衛たちが次々と退けられていく。
「ははっ!弱えな!」
「下がるのじゃ!」
レオノーラが護衛たちの前へ出た。
「魔王様!」
「こやつの狙いはわらわじゃ。無理に近づくでない!」
「ようやくやる気になったか?」
ザイルは嬉しそうに笑う。
「見た目がガキだからよ。大したことねえんじゃねえかと思ってたんだ」
「……お主、後悔するぞ」
「やってみろよ!」
ザイルが再び踏み込む。
横薙ぎの一撃をレオノーラが魔力の障壁で受け止める。すぐさまザイルは剣を引き、空いた左手を向けた。
「燃えろ!」
炎が至近距離で炸裂した。
護衛たちが思わず目を覆う。
「魔王様!」
「はっ!」
ザイルが笑った。
「その程度かよ!」
しかし炎が消えると、その笑みも消えた。
レオノーラは同じ場所に立っていた。服の裾すら焦げていない。
「……何だと?」
「もう……」
レオノーラが俯く。
「本当に怒ったのじゃ」
空気が変わった。
森の木々が風もないのにざわめき、周囲のマナが少女を中心に渦を巻く。目に見えるほど濃密な魔力がレオノーラの身体を覆い、ザイルの顔から余裕が消えていった。
「なんだ……この魔力……」
「安心せよ、お主を殺すつもりはない」
レオノーラが右手を上げる。
「捕らえて、犯した罪をきちんと裁かせるのじゃ」
「ふざけるな!」
ザイルが吠えた。
再び全身へ魔力を巡らせ、今度は左右の木々へ炎を放つ。爆ぜた火と煙で視界を塞ぎ、その陰から一気に回り込んだ。
ただ力が強いだけではない。長い実戦経験の中で、相手の視界を奪い、死角を作り、一瞬の隙を狙う術を身につけている。
「もらった!」
背後から剣が振り下ろされた。
「甘いのじゃ!」
レオノーラが振り向きざまに腕を払う。
轟音とともに衝撃が炸裂した。
「がっ――!」
ザイルの身体が吹き飛び、地面を何度も転がった。太い木へ背中から叩きつけられ、それでも剣を杖代わりにして立ち上がる。
「まだだ……!」
「まだ立つのか?」
「舐めんなよ……!」
口元から血を流しながら、ザイルは笑った。
「俺は、そこらの雑魚とは違うんだよ!」
限界を超える勢いで身体強化を高める。腕の血管が浮き上がり、皮膚の一部が裂けるほど魔力を無理やり全身へ流し込んだ。
「うおおおっ!」
地面が抉れる。
今までで最も速い踏み込みだった。
ザイルは全身の力を乗せて剣を振り下ろす。護衛の誰も割り込めないほどの速度と威力だった。
だが、その剣はレオノーラの目前で止まった。
「……嘘だろ」
レオノーラの小さな手が、魔力越しに剣身を受け止めている。
「お主が強いのは認めるのじゃ」
「くっ……!」
「じゃが」
真紅の瞳がザイルを見据えた。
「わらわを殺すには、全然足りぬ」
次の瞬間、ザイルの身体が地面へ叩きつけられた。
「がはっ!」
肺から空気が抜け、剣が手を離れる。
右腕は動かず、肋骨にも何本かひびが入った感覚がある。それでもザイルは地面へ手をつき、立ち上がろうとした。
「捕らえるのじゃ!」
レオノーラが護衛たちへ命じる。
「はっ!」
護衛たちが慎重に近づく。
ザイルは荒い息を吐きながら周囲を見た。
勝てない。
それだけは理解した。
「……くそったれ」
ザイルの手が腰へ伸びる。
「気をつけるのじゃ!」
地面へ小さな球体が叩きつけられた。
直後、濃い黒煙が一気に広がった。
「煙幕だ!」
「逃がすな!」
ザイルは煙の中を走った。
まともに動かない身体へ無理やり魔力を流し込み、事前に確認していた山道を外れる。ここを襲撃場所に選んだのも、護衛が少ないという理由だけではない。
逃げ道があることを知っていたからだ。
「ザイル!」
背後からレオノーラの声が響く。
木々を抜ける。
その先には深い谷があった。
濁った川が遥か下を流れている。
「止まるのじゃ! その傷で飛べば死ぬぞ!」
レオノーラの声に、ザイルが振り返った。
「捕まるよりマシだ!」
笑う。
そして、そのまま崖から身を投げた。
「ザイル!」
レオノーラが崖際へ駆け寄る。
遥か下で水柱が上がった。
すぐに姿は見えなくなる。
「……馬鹿者が」
レオノーラは険しい表情で川を見下ろした。
「捜すのじゃ。生きておるかもしれぬ」
「はっ!」
「それと、負傷者を先に治療せよ。無理に追って怪我人を増やしてはならぬのじゃ」
護衛たちが頷き、それぞれ動き始める。
レオノーラはもう一度だけ濁流へ目を向けた。
「本当に……面倒な奴なのじゃ」
◇
ザイルが次に意識を取り戻した時、冷たい雨が顔を打っていた。
「……ぐ……」
川からどうやって這い上がったのか、ほとんど覚えていない。気がつけば見知らぬ森の中におり、全身が鉛のように重かった。
左脚はまともに動かず、脇腹には深い傷がある。魔王との戦いで受けた傷に加え、崖から川へ落ちたことで身体のあちこちを痛めていた。川に流される間に魔王領の境を越えたのか、周囲の景色にも見覚えがない。
「……あのガキ……」
木の幹へ手をつく。
「化け物じゃねえか……」
口元から血がこぼれた。
悔しい。
腹が立つ。
だが、それ以上に死にたくなかった。
「こんなところで……終われるかよ……」
一歩進む。
さらに一歩。
やがて脚が完全に動かなくなり、泥の中へ倒れ込んだ。
「……くそ……」
雨音だけが聞こえる。
意識が遠のきかけた、その時だった。
「まだ生きています」
声がした。
ザイルが薄く目を開く。
雨の向こうに、数人の人影が立っていた。
全員が暗い外套をまとい、深く被ったフードで顔を隠している。衣服にも装備にも、これといった特徴はない。
「魔族ですね」
「かなり酷い傷だ」
「……てめえら……」
ザイルは剣へ手を伸ばそうとした。
だが、指すら満足に動かない。
「触るな……殺すぞ……」
「その状態では無理でしょう」
男の声には嘲りも恐怖もなかった。
「治療します」
「……何?」
「死にたいのなら止めません」
ザイルは男を睨む。
「何が……目的だ……」
「今は、生き延びることだけ考えればいい」
「てめえら……何者だ……」
返事はなかった。
ザイルの意識は、そこで再び暗闇へ沈んだ。
◇
次に目覚めた時、ザイルは小さな石造りの部屋に横たわっていた。
全身には包帯が巻かれ、脇腹の傷も塞がり始めている。枕元には水と食事があり、着替えまで用意されていた。
「……随分と親切じゃねえか」
「目を覚ましたか」
部屋の隅に、あの外套姿の男が座っていた。
「ここはどこだ?」
「知らなくていい」
「てめえらは何者だ?」
「それも知らなくていい」
ザイルの目が細くなる。
「気に入らねえな」
「それで構わない。我々も、お前に好かれたいわけではない」
「なら、何で助けた?」
男が僅かに身体を前へ傾ける。
「魔王領との境界を生きて越えて来たお前に興味がある」
「……俺を知ってるのか?」
「大方あちらで犯罪でもして、こちら側に逃げて来たのだろう」
「俺を売るつもりなら、殺すぞ」
「そんなことはしない」
男は動じなかった。
「その代わり、傷が治った後に一つ仕事を頼む」
「仕事?」
「ああ」
ザイルはしばらく男を睨んだ。
「報酬は?」
「人族の地で身を隠せる場所を用意する。食料も、必要な物資もこちらで手配しよう」
ザイルの表情が僅かに変わる。
魔王領の貨幣なら多少持っていたが、逃走の途中でほとんど失っていた。そもそもこちらで魔族の自分が堂々と店へ入り、物を買えるとも思えない。
「追手が来ても?」
「簡単には見つからない場所だ」
「酒も出るんだろうな」
「お前が望むなら。我々の酒が口に合うかは知らないがな」
ザイルが笑う。
「話くらいは聞いてやる」
「それで十分だ」
◇
さらに数日が過ぎた。
どうにか戦える程度まで回復したザイルは、外套の男に連れられ、森の奥へ来ていた。
「……何だ、こいつら」
木々の間には何体もの魔物がいた。
ゴブリン。
ウルフ。
さらに別種の小型魔物。
奥にはそれらより大きな影までいる。
本来なら異なる種類の魔物がこれほど近くに集まっていれば、争いが起きてもおかしくない。だが、どの魔物も互いに襲いかかる様子を見せず、不自然なほど同じ場所に留まっていた。
外套の男が、小さな黒い魔道具を差し出す。
「これを持て」
「何だ?」
「魔物をある程度誘導できる道具だ」
ザイルが眉を上げる。
「俺に魔物使いでもやれってのか?」
「完全に命令を聞かせることはできない。だが、持ち主を群れの中心として認識させ、進む方向くらいなら誘導できる」
ザイルが受け取る。
近くにいたウルフがザイルへ顔を向け、低く唸った。
だが、襲ってはこない。
「……へえ」
ザイルの口元が歪む。
「面白えな。それで、こいつらを使って何をしろって?」
「人間の街を一つ襲え」
男は淡々と告げた。
ザイルが黙る。
「……街を?」
「ああ」
「なんでそこなんだ?」
「お前が知る必要はない」
数秒の沈黙。
ザイルは肩をすくめた。
「まあ、どうでもいいか」
周囲の魔物を見回す。
「好きにやっていいんだな?」
「構わない」
「壊しても?」
「ああ」
「奪っても?」
「好きにしろ」
「殺しても?」
男は一瞬も迷わなかった。
「好きにしろ」
ザイルはそこで、心底楽しそうに笑った。
「ははっ……最高じゃねえか」
なぜその街を襲うのか。
なぜ魔族である自分にやらせるのか。
なぜ魔物を率いる必要があるのか。
そんなことはどうでもよかった。
暴れられる。
奪える。
抵抗する者を好きなだけ叩き潰せる。
そして終われば、追手から身を隠せる場所まで手に入る。
「街の場所は?」
男が地図を広げ、指を置いた。
「ここだ」
そこには、ハルト村から街道を進んだ先にある一つの街が示されていた。
「分かった」
ザイルは地図を受け取る。
「派手にやってやるよ」
「好きにしろ」
「終わったら、約束は守れよ。寝床と酒、それに追手の来ねえ場所だ」
「用意しておく」
「なら文句はねえ」
ザイルは黒い魔道具を握り、魔物たちの間へ歩いていく。
「久しぶりに、楽しめそうだ」
やがてザイルと魔物の群れが森の奥へ消えると、別の外套姿が木陰から現れた。
「本当に、あの男を使うのですか」
「ああ」
「制御できるとは思えません」
「制御する必要はない」
最初の男は、ザイルが消えた方角を見たまま答えた。
「あれは、好きなだけ暴れればいい」
それ以上の会話はなかった。
二人の外套には最後まで何の紋章もなく、やがて彼らも森の奥へ消えていった。




