第十二話 おじいちゃんの日課
朝日が王城の訓練場を照らしていた。
昨夜までの静けさとは打って変わり、騎士たちの掛け声と木剣が打ち合わされる乾いた音が広い訓練場に響いている。
休養日を終えた神崎剣一郎、悠真、美咲の三人もまた、ガレスの前へ整列していた。
王都の街並み。
受命ギルド。
依頼を受け、各地へ赴く受命士たち。
昨日目にした光景は、それぞれの胸に新たな思いを残している。
ガレスは武器棚の前へ歩み寄った。
棚には木剣だけではない。
木槍、木盾、そして長さの異なる木杖まで整然と並べられている。
「本日より、武器を用いた訓練を始めます」
その言葉に悠真の表情が引き締まる。
一方、美咲は少し緊張した面持ちで武器棚を見つめていた。
ガレスは一本の木剣を手に取り、悠真へ差し出す。
「悠真殿は剣を」
「はい」
悠真は両手で受け取る。
続いて一本の木杖を美咲へ向けた。
「美咲殿はこちらです」
「杖……ですか?」
「はい」
ガレスは穏やかに頷いた。
「聖女は前線で斬り結ぶよりも、回復や支援、そして魔法によって味方を助ける存在です。杖は魔法の補助具であると同時に、万が一接近された際、自らの身を守るための武器でもあります」
美咲は木杖を受け取り、静かに頭を下げた。
「よろしくお願いします」
最後にガレスは木剣を剣一郎へ差し出す。
剣一郎は軽く振り、重さと重心を確かめた。
「では始めましょう」
ガレスは三人を見渡す。
「今日から行う訓練は、敵を倒すためだけのものではありません」
穏やかな口調だった。
しかし、その瞳は真剣だった。
「勇者、聖女の加護による魔法は強力です。しかし戦場では思うように距離を取れないこともあります。魔物に接近されることも、魔力が尽きることもあるでしょう」
悠真も美咲も真剣に耳を傾ける。
「その時、生き残れるかどうかは、自分の身を守る術を知っているかで決まります」
訓練場に静寂が訪れる。
「これは勝つための訓練ではありません」
ガレスはゆっくりと言った。
「皆さんが、生きて帰るための訓練です」
その言葉に剣一郎が静かに頷いた。
「武器も武術も、人を傷つけるためだけのものではない」
三人の視線が剣一郎へ集まる。
「己が身を守るための術でもある」
◇
まずは基本姿勢からだった。
「悠真殿」
ガレスは悠真の握りを見て苦笑する。
「少し力み過ぎです」
悠真は慌てて力を抜く。
「剣は力任せに振るものではありません」
次に美咲を見る。
「美咲殿は杖を強く握り過ぎないように。魔法を扱う際も身体の力は抜いてください」
「はい」
続いて構え。
足幅。
重心。
視線。
肩の高さ。
ほんのわずかな違いを何度も修正していく。
「武器ばかり見ないこと」
「相手全体を見る」
「身体を固めない」
一つひとつは簡単そうに見える。
だが、思うようにはできない。
悠真は肩に力が入り、美咲は重心が後ろへ逃げてしまう。
ガレスは根気よく直した。
「次は足です」
前へ。
後ろへ。
右へ。
左へ。
斜めへ。
武器を持ったまま、重心を崩さず動く。
最初はぎこちない。
何度も足がもつれる。
その様子を見ていた剣一郎が口を開いた。
「武器は違えど、基本は同じじゃ」
美咲が顔を上げる。
「同じ、ですか?」
「足で立ち、腰で支え、身体全体で動かす」
剣一郎は木剣を軽く構えた。
「剣も杖も、それは変わらん」
ガレスも頷く。
「神崎殿のおっしゃる通りです」
「土台が崩れれば、どんな武器も扱えません」
悠真は何度も足を運び直す。
美咲も杖を構えたまま重心を意識した。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
二人の動きは安定していく。
◇
「では素振りです」
悠真は木剣を振る。
美咲は杖を真っ直ぐ突き出し、振り下ろし、横へ払う。
どちらも百回。
五十回を過ぎた頃には腕が悲鳴を上げ始めた。
「重い……」
悠真が息を切らす。
美咲も肩で呼吸をしていた。
それでもガレスは止めない。
「基本は身体に染み込ませるものです」
二人は歯を食いしばる。
九十九。
百。
ようやく木剣と杖を下ろした。
額から汗が滴る。
「お疲れさまでした」
ガレスは頷く。
「よく最後までやり遂げました」
悠真は苦笑した。
「思っていたよりずっと大変ですね」
「だからこそ毎日の積み重ねが必要なのです」
ガレスの言葉に、剣一郎も静かに口を開く。
「派手な技は誰の目にも映る」
木剣を見つめる。
「じゃが、全てを支えるのは基本じゃ」
百回の素振りを終えた悠真は、その場に座り込んだ。
「はぁ……腕が上がらない」
隣では美咲も木杖を抱えながら苦笑する。
「想像以上ですね……」
ガレスは頷いた。
「今日の訓練はここまでです」
騎士たちもそれぞれ武器を片付け始める。
そんな中、一人だけ木剣を手にしたまま動かない者がいた。
剣一郎である。
静かに足を開き、自然体で構える。
そして――
ヒュン。
木剣が風を切る。
一振り。
また一振り。
決して速さを誇るような振りではない。
力みもない。
ただ、無駄がない。
同じ軌道を、寸分違わず繰り返していく。
悠真は思わず見入っていた。
「おじいちゃん……」
一本。
また一本。
呼吸は乱れず、姿勢も崩れない。
まるで身体そのものが剣を振るためにあるかのようだった。
ガレスも黙って見つめる。
(まだ振るのか……)
訓練を終えた騎士たちも、いつしか足を止めていた。
誰一人、声を発しない。
静かな訓練場に、木剣が風を切る音だけが響き続ける。
やがて悠真が尋ねた。
「おじいちゃん、何回振るの?」
剣一郎は木剣を止めることなく答えた。
「千回じゃ」
「せ、千回!?」
悠真と美咲が同時に声を上げる。
「日本におる頃から毎日続けておる」
その口調は実に穏やかだった。
「異世界へ来ても、それは変わらん」
一本。
また一本。
「強くなる秘訣はありますか、と聞かれることがある」
剣一郎は静かに笑う。
「特別なものなどない」
木剣は変わらぬ軌道を描く。
「昨日より一本多く振る」
「昨日より少しだけ丁寧に振る」
「それを積み重ねるだけじゃ」
ガレスは静かに目を閉じた。
今日見たあの一振り。
あれは才能でも、加護でもない。
七十年という、誰にも真似のできない歳月が生み出した剣だったのだ。
悠真は木剣を握り直す。
「……俺も、もう少し振ります」
美咲も木杖を持ち直した。
「私も」
剣一郎は二人を横目で見て、小さく微笑む。
「無理はせんでよい」
木剣を構える。
呼吸を整える。
身体から余計な力が消えていく。
その姿だけで空気が張り詰めた。
ヒュン――。
一振り。
それだけだった。
だが風が走り、少し遅れて木々の葉が揺れる。
悠真は思わず息を呑んだ。
「速い……」
美咲も目を見開く。
「何も見えませんでした……」
ガレスだけは辛うじて剣筋を追えた。
だからこそ分かる。
無駄が一つもない。
踏み込み。
腰。
肩。
腕。
すべてが自然につながっている。
力ではない。
長い年月を積み重ねた者だけが辿り着ける境地だった。
剣一郎は静かに木剣を下ろす。
「特別なことではない」
穏やかな声が響く。
「毎日、基本を積み重ねてきただけじゃ」
悠真は木剣を握り直す。
美咲も杖を持つ手に力を込めた。
剣一郎は二人を見て、小さく微笑む。
「焦ることはない」
そして、いつもの言葉を口にした。
「できぬことを数えても始まらん」
その言葉を胸に、悠真は木剣を、美咲は杖をもう一度構えた。
勇者と聖女、そして一人の老剣士。
それぞれが自らの身を守る術を学ぶ、本当の修練が静かに幕を開けた。




