第9話
夕方になる前に、クロエは帰っていった。
総帥ともなれば、本業も忙しいのだろう。
「まあ、明日からが本番だな。今日からの宿だが、えっちゃんに案内してもらおう」
階下に降りながら、ハルがこの建物のことを説明してくれた。
一階は、一般社会向けの「海産物を取り扱う商社」。
一般人、つまり非転生者も働いている。
二階は、別会社である「山岳警備のNPO」。
それが表向きの顔であり、実質的にはハル商会の拠点らしい。
三階はハルの自宅。
ハルアキと二人暮らしだという。
二人暮らし。
奥様は、亡くなったのだろうか。
先ほど社長室に飾られていた、あの写真の女性だろうか。
ハルは「103」とだけ書かれたドアの前で立ち止まると、ノックもせずに開けた。
書類棚が隙間なく並ぶ部屋だった。
その間に、デスクが三つほど置かれている。
そこに、ハルアキと女性がいた。
ハルアキは、カレーを食べていた。
「なんだあ、お前。まーた会社に入り浸ってんのか」
「うるせえな。三階まで登るのが面倒なんだよ」
「仕事もしねえで気楽なこった」
「こっちは昼過ぎまで漁に出てたんだぞ。知ってるだろう」
バネッサは、女性に目を向けた。
えっちゃん、というのは、この人なのだろうか。
その響きから、若い事務員のような人を想像していた。
だが、実際には四十代くらいに見える女性だった。
少しふくよかで、メガネをかけている。
「アネッサさんね。はじめまして。ナカイです。ナカイ・エミ」
「あ、アネッサです。よろしくお願いします、ナカイさん」
社長と息子の口喧嘩は、日常茶飯事なのだろう。
ナカイさんはまったく動じていなかった。
「あー、えっちゃん。嬢ちゃんの宿舎はどうなった?」
「はい、社長。もう昨日、風通しもして、お布団も用意できていますよ」
「じゃあ、案内を頼むわ」
「ああ、親父。えっちゃんのこと、アネッサさんに言ったのかよ」
「あ。いけねえ、忘れてた」
何だろう。
「あー、嬢ちゃん。このえっちゃんは一般人だ。転生者じゃねえんだ」
「えっ?」
「いわゆる協力者ってやつだ。転生者の秘密は守ってくれるから、安心しな」
協力者なら、バネッサも知っている。
恩人の一人も、協力者だった。
バネッサに最初に日本語を教えてくれた美也子先生は、一般人、つまり非転生者である。
彼女は、三代にわたる協力者の家系だった。
ただ、バネッサが住んでいる地方では、協力者の安全を守るため、その正体については転生者の仲間同士でも秘密にするのが常識だ。
だから、バネッサが驚いたのは、ナカイが協力者であることそのものではない。
第三者である自分に、それを明かした軽さにだった。
◆ ◆ ◆
宿舎は、ハルの商館から二十分ほど歩いた場所にある木造アパートだった。
商館が所有するアパートで、契約した採取師が寝泊まりする施設らしい。
アパートへ向かう道すがら、ナカイさんは、自分が協力者になった事情を話してくれた。
先代の社長に命を救われたこと。
その時のトラブルで、社長が転生者であることを知ったこと。
その後、命の恩人である先代社長の会社に就職し、結婚もせず、現在に至ること。
ナカイさんは、アパートへ案内してくれる間、ずっと喋っていた。
「昔はねえ、全部の部屋が埋まってたんだけどね。今は人が減っちゃって」
「女の子が来るって聞いたから、一番状態のいい部屋にしたのよ」
「お風呂はシャワーだけなの。湯沸かし器、使い方分かる?」
「そうそう、隣も女の子なの。二か月前から住んでるわ。仲良くなれるといいわね」
「これ、鍵ね。なくしちゃだめよ。戸締まりには気をつけてね」
「今晩、あなたの歓迎会があるの。十八時過ぎ集合ね。これ地図よ」
「じゃあね」
マシンガントークに圧倒されて、バネッサはほとんど返事ができなかった。




