第4話
バネッサは、固まったまま画面を見つめていた。
どうだろうか、とアキラが様子をうかがう。
すると、先ほどまで青ざめていたバネッサの顔に、少しだけ血の気が戻っていた。
血が巡り始めたようだ。
アキラは内心、ほっと息をつく。
アキラが知っているバネッサは、もっと冷静で、思慮深い人だ。
うどん屋の現実を突きつけられたショックで、思考が止まっていただけなのだろう。
いつもの彼女なら、クロエの言葉の裏側まで読んでいるはずだった。
PCの画面から目を離さないまま、バネッサがぽつりとつぶやく。
「……お店、続けられますか」
「はい。もちろん、盗掘者の捕縛が前提になりますが」
バネッサは、ゆっくりと立ち上がった。
「お茶、淹れ直してきます」
新しい茶葉を急須に入れ、お湯を注ぐ。
本当は、コーヒーが飲みたいところだった。
棚に置かれた古いドリッパーに、ちらりと目を向ける。
それから視線を動かし、天ぷら用の鍋を見る。
うどんの釜を見る。
最後に、壁に掛けられた大きな風景画を見た。
ギルの物置部屋を改装した、バネッサの部屋。
窓のない殺風景な部屋に、せめて窓の代わりにと、美也子先生が飾ってくれた絵だ。
湖と森。
遠くに見える山。
バネッサは目を閉じた。
山の中にいる自分を思い浮かべる。
湿った土の匂い。
木々の影。
石の気配。
人が踏み荒らした跡。
ゆっくりと、頭が回り始めた。
「……二つ、条件を出させてください」
急須から三つの湯飲みにお茶を注ぎながら、バネッサがぽつりと言った。
「あの、今、うちの店、ちょっとは繁盛していて。冷やしうどんを楽しみに、毎日のように来てくれるお客様も、そこそこいるのです」
「なるほど。それで?」
「前の依頼の時は、バイトちゃんにお店を任せました。でも、バイトちゃんの都合がつかない時は、臨時休業にしていたんです」
バネッサは、湯飲みを二人の前に置いた。
「……でも、今回の依頼は、期間が長くなりそうなので。クロエさんの方から、誰か料理のできる人を貸してほしいのです」
「それなら、今回は私が適任ですね」
アキラが、お茶をすすりながら言った。
「お料理が上手なアキラさんなら、安心です」
バネッサは、うんうんと頷きながら微笑んだ。
クロエは内心、うろたえた。
有能な秘書であるアキラが抜けるのは、かなり痛い。
痛いどころではない。
だが、バネッサの笑顔を見て、クロエは観念した。
「二人が良いなら、そのようにしましょう」
アキラが、横目でクロエを見る。
「社長?」
「……そのようにしましょう」
クロエは、少しだけ声を低くして繰り返した。
「それで、二つ目の条件とは?」
「今回の任務にあたり、私をバネッサとしてではなく、地方から来た無名の助っ人採取師として活動させてください」
「理由を聞かせていただいても?」
「自分で言うのも何ですが、私、名前が結構売れているでしょう?」
「ええ。『腹ペコ猫』の名は――」
「そのあだ名、嫌いだって、もう二回も言いましたよ!」
「失礼。しかし、名前が売れていると、なぜ問題に?」
「だって、久遠だって知られているので。珍しいものみたいにじろじろ見られたり、昔のことを聞かれたりするのが面倒くさいんですよ」
バネッサは、少しむくれたように湯飲みを持ち上げた。
クロエは、内心で頷いていた。
実のところ、二つ目の条件はこちらから提案するつもりだった。
全国に名の響く伝説の採取師。
『腹ペコ猫』バネッサ。
彼女が動き出したと聞けば、盗掘者たちが警戒して、しばらく動きを止めるかもしれない。
盗掘者の内通者が、件の商会に潜り込んでいる可能性もある。
これまでの任務では、バネッサの知名度を利用することもあった。
だが、今回は違う。
名前は伏せておいた方がいい。
「はい。二つ目の件も、問題ありません。必要な書類の手配も、こちらで行います」
「では……」
バネッサは、湯飲みを置いた。
その顔には、先ほどまでの弱々しさはなかった。
「今回の件、お引き受けします」
クロエは静かに立ち上がり、手を差し出した。
バネッサも立ち上がり、その手を握る。
交渉は、成立した。




