京都グルメガイド(4)
お店から差し入れられたミルク系のどろり濃厚ドリンクで、アマリ会長はなんとか調子を取り戻した。それでもまだ、舌を出してはーはー言い、胃をおさえていたりする。
「ごめん、ちょっとトイレ」
店長が外を指さす。
「吐くのなら、ビルのトイレはやめてほしいです。詰まると後が大変なので。外の公衆トイレでお願いします」
口調にトゲがある。さすがに気分を害したようだ。
「ああ。ちょっと行ってくる」
ふらふらと外に出る会長。
数分後、戻ってきた会長は、いつになく深刻な顔をして言った。
「澪君から電話が来た。店がみつからないそうだ」
「来れたんですね」
「ああ。だが、幕末維新館が見当たらないそうだ。何度もうろうろしたが、このビルも見つからないと言っていた。僕も橋のところで落ち合おうとしたのだが、会えなかった。澪君は半泣きだ」
私も電話をかけようとした。が、地下のせいなのか圏外だ。
「会計をすませて外に出ましょう」
会長は、店長の「もう少し休んでいけば?」という提案にぺこぺこして礼を言いつつ、会計を済ませた。
外に出る。
夜風が気持ちよかった。
幕末維新館の前に移動する。いつもの人通りにいつものにぎわい。電話は通じるのに落ち合えないのがもどかしい。
「通りと方角を間違えているのかもしれない。一度、森繁の前に……は行きにくいか」
女子大生を風俗街に立たせるのは、さすがに非常識というものだ。
「東華菜館の前はどうです?」
横断歩道まで行って向かいに渡る。その時間すらもが歯がゆい。
東華菜館は、京都の誰もが知る老舗の中華料理店だ。アメリカ人建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計したという名建築。日本最古のエレベーターがある建物としても知られている。夏には鴨川に床を出したり、屋上のビアガーデンが賑わうらしい。ただし、値段は少しお高め。
「東華菜館の前の掲示板の所にいるらしい。……おーい、天王寺君~」
スマホを手にしたアマリ会長、額に汗をにじませている。
「メリーさん、これはひょっとして……」
「そうね。澪さんは、異世界に入ってしまった……」
「解決法は、ないの?」
「あたしだけなら、あちらに行けなくはないのだけど……」
悩んでいる。
「そうね。これは一種の『シュレーディンガーの猫』問題ね」
「シュレーディンガーの猫」とは、オーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが考えついた、猫をたとえに使った思考実験のことだ。猫と放射性元素を閉じられた箱に入れる。放射性元素の一時間あたりの崩壊確率を五十パーセントとし、ガイガー計数管が原子崩壊を検知すると猫が殺される仕掛けにしておく。すると、一時間後の猫の状態は、半分生きていて半分死んでいる状態として記述される。箱を開けるまで結果はわからない。
「でもね、これって箱の反対側に窓をつけて、別の観察者を置いておけば解決する問題なの」
「つまり、解決の鍵は、『別の観察者』!」
私は、青くなっている会長に提案した。
「誰か別の人を呼んで、そこで落ち合うんです」
「よし、わかった!」
アマリ会長はスマホを操作した。
「サバエ君。今、どこにいる。……木屋町の一番安いカクテルバー!? ムーンウォーク!? 高瀬川の西の筋を歩いて行けばトンツキにある? 合流していいかな? ……了解した」
私は電話で澪さんにその場所を伝えて、元来た場所へと進んだ。
カランカラン……
扉を開くとドアベルが鳴った。
カウンターからサバエ氏が振り返り、手を振る。
「よう! 本当に、近くにいたんだな」
「いやー、助かったよ。道に迷ってしまったんだ」と会長。
「ようこそ、貧乏学生の穴場へ」
バーカウンターの向こうの若いマスターは苦笑している。
「ブラッディー・メリー!」
メリーさんはさっそく注文をする。
「身分証をご提示願えますか」
マスターは、メリーさんの学生証を確認すると、にっこりした。
「私はヴァージン・メリーで」
未成年は、ノンアルカクテルなのだ。
「お客さん、通だね!」とマスターがウィンクする。
メリーさんと私の前に二つのコリンズグラスが並んだ。一見してどちらがノンアルかわからないが、マスターは心得ているはずだ。ひと舐めする。
……うん、ノンアルだ。
ドアベルが鳴った。澪さんだった。
「よかったー! ついに会えましたー!」
澪さんのドリンクがそろったところで、会長が音頭をとった。
「よーし、ミステリー研の再会を祝して! カンパーイ!」
というわけで、ミステリー研の謎の失踪事件は解決した。
不思議なことに、帰り道でちらりと見ると、幕末維新館は別の店にかわっていた。
そして、あろうことかペコちゃんレストランまでなくなっていたのだ!
「ああーっ、また行こうと思っていたのに!」
「本当に困るのー!」
おそらくそれは、昔のグルメライターが精魂込めて書いた記事への思いが生み出した幻影だったのだろう。
私たちは、満腹になった胃袋と楽しい思い出を胸に、帰路についたのだった。