明治11年(1878年)10月 神奈川横浜 ダスティ商会 伊達正
大久保利通が亡くなって、混乱が生じるかと思われたが、それはごく一部だった。
8月に近衛砲兵隊が待遇改善を求めて起こした竹橋事件を除けば、政権を揺るがすような混乱は見受けられなかった。
大久保が亡くなる以前から、伊藤博文や井上馨、そして大隈重信らが徐々に力を付けていたためだろう。
大久保という一人の大物が舞台を降りても、時代そのものは止まらない。
まさに天は、次の役者を欲していたのだ。
そう考えれば、大久保の死もまた、時代の大きな流れの中にあったのかもしれない。
そんな折、一人の男がダスティ商会を訪ねて来た。
増田林蔵だ。
忠七がしきりに心配し、もし訪ねて来たら相談に乗ってやって欲しいと頼まれていた人物である。
「お久しぶりです。一度、フィラデルフィアの万国博覧会でお会いして以来になりますが……増田林蔵と申します」
「確か、製茶業界の方でしたな。改めまして、伊達正です。で、今日はどのようなご用件で?」
「今日は折り入ってお願いしたいことがあって、罷り越しました。どうか私を、ダスティ商会で使ってはいただけないでしょうか?」
忠七の手紙では、製茶業界に失望し、商売の世界へ逃げている、と書かれていた。
だが、目の前にいる青年からは、そんな後ろ向きなものは感じられなかった。
「製茶業界を捨てて、こちらの世界に身を投じたい、ということですかな」
「捨てるというのとは、少し違うのかもしれません。変化を受け入れない業界が、某を捨てたのかもしれません」
そう言うと、少し寂しげに自嘲して続けた。
「捨てられようと、茶を愛する心はあります。茶を栽培する人々、製造する人々が不当に泣かされることが無いように、まず自分が進化することを模索しようと思います」
その言葉に、忠七がこの男を案じていた理由が少し分かった気がした。
「逃避することをやめたのですな。忠七がしきりに心配しておりましたぞ。製茶業界から逃げるように、商会の業務に没頭していると」
「はい。自分が何に目を反らし、何から逃げようとしていたのかが、ようやく分かりました。それに立ち向かうために、貴方の元で学びたいのです」
迷いのない目だった。
先ほどまでの自嘲も消えている。
「そういう事なら、私に拒む理由などありませぬ。私の元で、弱き人々を守るための投資を学ばれるがよかろう」
それを聞いて、林蔵は深く頭を下げた。
その頬から、ぽろぽろと雫が零れ落ちる。
それを拭おうともせず、ただ深々と頭を下げ続ける姿が、彼の胸に秘めていた思いの丈を雄弁に物語っていた。
「これから、よろしくお願いいたします」
その声だけは、涙に濡れていても力強かった。




