明治11年(1878年)2月 東京府日本橋区駿河町 三井物産 伊達忠七
前年の暮れ、突然の帰国命令を受けた。しかも、正様からでは無く三井物産の益田孝殿より。お世話になった、三野村利左衛門様が2月に亡くなったことは聞いていた。その後を実質、引き継いだのが益田殿だということも知っていた。だが、それほど面識の無い自分を呼び戻すなど、予想していなかった。
ニューヨークの佐藤百太郎殿や、留学仲間の森村豊殿や新井領一郎殿に別れの挨拶をするのは勿論。ダスティ商会で共に働いた、パトリック・オットー・アイザックとも別れ難かった。一番の心配は、増田林蔵殿だった。まだ、彼の中では決断がつきかねていた。そんな彼を残して、日本に戻らねばならない事が心残りだった。
横浜港に着き、真っ先にダスティ商会を訪ねたい思いを押し殺して東京行きの鉄道に乗った。横浜港もそうだが、鉄道などアメリカに行っている間にも着実に進化している。日本橋で一際目をひく、白亜の石造物が目に入った。三井銀行である。やはりこの界隈も、2年の歳月で変わりつつあった。銀行内の三井物産を訪ねると、直ぐに益田殿に取次がれた。
「おかえり、2年の留学で得るものはあったかね」
そう言って、益田殿は右手を差し出してきた。応じて握手をしながら、答えた。
「ええ、大いに得るものがありました。日本と違い、アメリカは大資本時代に移り変わろうとしています。それを感じるためにも、今少しアメリカに留まっていたかったのですが…」
「すまないね、三井は三野村様という大黒柱を失って人材を再編せねばならない。その意味でも、君には期待しているのだ」
そう言われると悪い気はしないが、三野村様ほどの貫禄は感じられなかった。無理もない、一年前に引き継いだばかりなのだから、それを求めるのは酷というものだ。三井の大看板を、この若さで背負わねばならないことを気の毒にすら思う。
「三井としては君に中心で働いて貰いたいのだが、語学力のある君を見込んで頼みたい仕事がある。5月にパリで開かれる万博だ」
このために呼び戻されたのか、利左衛門様への恩返しもままならなかったのだ。三井を盛り立てるためにも、2〜3年を目処に奉公せねばなるまい。それが終わったなら、自分の居るべき場所へと戻りたい。承諾する返事をしながらも、その思いは揺るぎないものとしてあった。




