文久3年(1863年)8月 江戸柳橋 柳橋袂 伊達正
「新八郎〜!」いかん、あれは動脈を切断されたことによる意識混濁だ。何とかして早く止血をせねば、気ばかりが逸った。事ここに至っては、もはや躊躇してはいられない。観念して、脇差しに模したレイピア(刺突剣)を抜き放つ。次の瞬間、細い鎖の着いた分銅を正面の男の鳩尾に投げつけた。男は息を奪われた。困惑したまま、こちらの接近に対応しきれない。胸元に刺さったレイピアは、確実に心臓を穿いていた。他の三人には何が起きたか分からぬうちに、仲間の一人が崩れ落ちた。一人、また一人と刀を抜いて斬りかからんとする。が結果は、最初の一人と同じように叫び声をあげること無く崩れ落ちてゆく。新八郎を斬った男が不可解な面持ちで問うて来る。「いったい何をした、剣の腕は然程ではないが瞬く間に四人を屠るとは…」問答する間とて惜しい、新八郎は刻一刻と死の淵へと向かっているのだ。「何をされたか、ゆっくりあの世で考えるのだな」と言い終わると、心臓目掛けて分銅を放った。上段で構えていた男の刀が、驚くほどゆっくりと振り下ろされる。否、心の臓を打たれた男の身体が、既に言うことを利かなくなっていたのだ。それを尻目に懐に入り込み、そのまま心の臓を穿った。
とどめを刺した次の瞬間、新八郎の元へと急ぎ駆け付ける。新八郎の根付紐を引き抜き、斬撃を受けた上部で固く縛りこれ以上の出血を抑える処置を施した。本当ならば一刻も早く、半分以上切断された腕を切り落として血管を縫合してしまいたいのだが…。
と、その時。「これ、お前さん一人でしてのけたのか」不意に後ろから声を掛けられて、身構えた。「いや、すまない。驚かせるつもりは無かったんだが」そこには立派な身形の、痘痕顔の武士が立っていた。「痘瘡ですかな、もう少し早ければ予防も出来たでしょうに…」と、言った後に気づいた。しまった、痘瘡の予防はまだ実験段階の代物だった。「これか、幼き頃に患うたのだ」ほっとした、予防に関しては咎められなかった。いや、もっと大事な問題がある。一連の騒動をつぶさに見られていたのなら、この御方を消さねばならぬ。
そこへ番所の役人を引き連れた、学者風の男が駆けつけて来た。「又さん、連れて来たぞ」そう言った男は、新八郎に施した止血術を診て感心して言った。「見事なものだ、この少ない道具でしっかりと止血が出来ておる」どうやらこの御仁は同業者らしい。「そういえば、まだ名乗っておらなんだな。某は駿河台の旗本、小栗上野介じゃ」痘痕顔のお武家があの有名な、勘定奉行の小栗上野介様だったのか。「そして俺は、医者の栗本瀬兵衛だ」幕府の医師だったか、昨年迄は箱館いたと聞いていたが…。「某、深川で診療所を構える二宮敬逸と申します。これなるは某の助手を務める新八と申します」ここは偽名で通さねばなるまい。「深川の医師がどうして、このような場で人斬り働きなどしておる」咄嗟に説明が付きにくい状況だ。「人斬り働きなど、某は脇差し一つしか持ち合わせておりません。新八は武士の出で、私を護る為に防いでいてくれたのです」なんとか捻り出した言い訳など、合理主義の権化のような小栗様には通用するまい。「分かった、そこな新八なる者このままここに寝させて置く訳にも参るまい。我が邸に運べ、ゆるりと養生させるがよい」成る程、そこでじっくり話を聞かせよ…ということか。




