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文久3年(1863年)8月 江戸柳橋 柳橋袂 小栗忠順

「まぁた、奉行職を辞めたんだってなぁ」先日、箱館より江戸へと呼び戻された、栗本瀬兵衛が呆れたような口調で言い捨てた。幼き頃より世話になってきた兄貴分。その江戸復帰を祝って柳橋に繰り出したのだが…。「攘夷屋が煩くてな、このままでは家人の安全もままならぬ」現に、斬奸状や暗殺の脅迫まで受けている。「俺一人なら、どうとでもなるのだが…」俺の強情に、罪なき家人は巻き込めぬ。「お主は変わらんなぁ、いつも誰かのために身を引いて」損な性分なのだろうか。いや、これは俺が生きて来た中での譲れない一本の芯なのだ。


暮れかかる柳橋の川面に灯りが揺れ始める。かすかに潮の匂いが混じる。元は海であった名残りであろうか。そんな感傷を打ち破る光景が、目に飛び込んできた。刀が打ち合わされ、火花が散った。「瀬ぇさん、今の見たか」傍らの瀬兵衛に尋ねると。「ああ、斬り結んでいるな」冷静な声だが、僅かに緊張が混じっていた。「瀬ぇさんは両国橋の番所へ、俺は柳橋の番屋の者と駆け付ける」番屋は居ても精々2〜3人、番所ならば常時5〜6人は居るはずだ。「分かった、気ぃつけろよ又さん」流石は馴染みの兄貴分、全てを口に出さずともこちらの思いを悟ってくれる。

番屋の者に声をかけると、橋向こうの袂へと急いだ。まだ少し距離はあるが、朧げながら対峙している二人が見える。上段に構えた男の刀が力なく振り下ろされる。その前にもう一方の男が懐へ飛び込んだ。その男は斃した相手には目もくれず、倒れている仲間の元へと駆け寄っていった。斬り合いは終わったようだ、息を整えながら仲間を診ている男の元へと歩み寄る。「これ、お前さん一人でしてのけたのか」突然声を掛けたせいか、男は僅かに肩を震わせた。「いや、すまない。驚かせるつもりは無かったんだが」まじまじと、こちらの顔を観察されているような気すらしてくる。「痘瘡ですかな、もう少し早ければ予防も出来たでしょうに…」驚くような話を、事もなげに返してきた。痘瘡を予防?聞いたこともない。「これか、幼き頃に患うたのだ」気づかぬふりで、問い掛けに答えた。暫くすると向こうから、瀬兵衛が番所の役人を数名引き連れてやって来た。「又さん、連れて来たぞ」相変わらず、ぶっきらぼうだが仕事は早い。「見事なものだ、この少ない道具でしっかりと止血が出来ておる」成る程、医術の心得があるらしい。「そういえば、まだ名乗っておらなんだな。某は駿河台の旗本、小栗上野介じゃ」改めて名乗ると、横にいた瀬兵衛も。「そして俺は、医者の栗本瀬兵衛だ」と、続いて名乗った。「某、深川で診療所を構える二宮敬逸と申します。これなるは某の助手を務める新八と申します」深川の医師?それがこうも見事に、5人を仕留めるとは到底思えん。「深川の医師がどうして、このような場で人斬り働きなどしておる」素直な疑問を、口にしてみた。「人斬り働きなど、某は脇差し一つしか持ち合わせておりません。新八は武士の出で、私を護る為に防いでいてくれたのです」まあ、そういうことにしておこうか。「分かった、そこな新八なる者このままここに寝させて置く訳にも参るまい。我が邸に運べ、ゆるりと養生させるがよい」ここでは積もる話も出来はしまい、聞きたいことは山程あった。番所の役人に板戸の手配を願い、新八を載せ駿河台の我が邸へと向かった。

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