明治10年(1877年)2月 神奈川県横浜 ダスティ商会 伊達正
利左衛門殿はいよいよ、己の力では起き上がれぬほど衰弱が著しいらしい。今一度、利左衛門殿を見舞わねばなるまい。だが、手紙には今後の三井を案じ、後を託した益田孝殿に会って欲しい旨が記されていた。ところが当の益田殿は現在、上海に赴いており会う機会を逸している時に彼が訪ねてきた。三菱を率いる、岩崎弥太郎殿だ。
「いやー、久方ぶりですな。暫くアメリカでのご滞在と伺っていましたが如何でしたか」
この人は本当に唐突に現れる。こちらの返事も待たずに、己の伝えたい事を続けてきた。
「いよいよ最後の大物が動き出すらしいですぞ、維新の立役者・西郷隆盛が」
廃刀令以来、燻っていた感情が西郷という贄を得て最後の局面へと向かって動き出そうとしている。
「ほう、政府筋からの情報ですか?だとしたら信憑性は高いと思われますが」
「ええ、政府高官よりも一層現場に近い、現地の官僚からの情報なので間違いないでしょう」
となると、何故ここに岩崎殿がいるのかが不思議に思われた。海運の三菱がこの機を逃すはずは無い。
「我ら郵便汽船三菱は、この機を捉えて全てを賭して政府に協力して行くことに決しました。この賭けに勝てれば、永らく滞っていた貴殿への配当もお支払い出来ましょう」
「今日お伺いしたのは、三井の今後を託された益田孝とは如何なる人物なのかうかがいに参りました」
それでか、利左衛門殿と気心の知れた自分を通して商売敵の益田殿を知りたいと。自分はアメリカ仕込みの掌を上に向け、額辺りの高さに持ってきて首を横に振る動作で答えた。
「残念ながら、まだ会えていません。利左衛門殿には彼が帰国した折には、是非とも会って欲しい旨の手紙は受け取りましたが…」
と言ったところで気づいた、岩崎殿は益田殿が上海に赴いていることを知らないのではと。その自分の言葉尻を捉えて、岩崎殿が詰め寄る。
「益田孝は今、日本にいないのですな。なんという好機、今日明日にでも開戦の報が届けば、三井を出し抜けますぞ!」
興奮する岩崎殿を後押しするように、東京の大洲商会で政府担当の情報収集をしている若手社員が、息を切らして駆け込んで来た。
「急報です。鹿児島の私学校生徒が挙兵、西郷隆盛もこれに加わり北上を開始したとのことです!」
「そうか、とうとうやったか。政府が兵士を運ぶには船がいる、三菱の本領発揮じゃ」
「こうしてはおれん、三菱の全ての船を搔き集め兵士・物資の輸送を一手に引き受けねば」
そう言うと、岩崎殿は退去の挨拶もそこそこに横浜に碇泊中の上海行汽船を止めに駆け出して行った。
「これはまた、岩崎殿に華を持たせてしまったか」
「…」
自分の呟きに、報告を持ってきた若手社員が何の事か分からずきょとんとしている。これが三菱の社運を導く、試金石となることは明らかだった。三菱が大きくなればなるほど、又四郎は自分の手を離れてゆく。そのことだけが、胸に小さく引っ掛かった。




