明治8年(1875年)5月 神奈川県横浜 ダスティ商会 伊達忠七
この年の2月、岩崎弥太郎様率いる三菱商会が、横浜と上海を結ぶ定期航路を就航させた。それに伴って、又四郎が頻繁に横浜を訪れるようになった。だが、以前ような嫉妬心は無かった。正様の教えもあったし、先日届いた手紙にあった。
「やっとそなたの希望であった、アメリカに渡る機会がやって来た」
との文言に、改めて思いを募らせていたからかもしれない。正様から渡米の機会を与えられたことで、自分は満たされていた。だからこそ、以前なら気になった又四郎の態度も、不思議と冷静に見られた。逆に、又四郎が自分に対して嫉妬心があるのではないか。と思わせる言動が、多々見られた。
正様の手紙には、3月にニューヨークを発たれた佐藤百太郎殿がアメリカで学ぶ仲間を募っていること。シカゴで購入したプラウなる農機具を、保管しておける倉庫の手配。百太郎殿に協力して、仲間を募る手助けをするよう書かれていた。正様の手紙では、心あたりがあるようで。三人の名前が記されていた。以前からアメリカ商館でよく会っていた、森村市左衛門殿。そして、富岡に行った折、出会った星野長太郎殿。さらに、古い伝手であろう慶応義塾の創設者である福沢諭吉殿だった。
一番手近な、森村市左衛門殿に面会を申し入れた。森村殿は快く、応じてくださった。手紙の事、佐藤百太郎殿の事を話すと、弟御の森村豊殿が慶応義塾で学ばれているとのことで、連絡を付けてくだされた。福沢諭吉様には佐藤百太郎殿が紹介状を持っているとのことなので、こちらから接触を持つことはしなかった。
「お初に御目にかかります。横浜のダスティ商会で商いを学んでおります、伊達忠七と申します」
と言うと、恐縮しきりで答えた。
「然程に歳も変わらぬのに、そのように下手に出られては…こちらもまだ、ただの学生です」
その言葉に、幾分か緊張が和らぎ続けた。
「お兄様にはお話したのですが、此度アメリカより佐藤百太郎様が帰国され、アメリカで学ぶ同志を募るとのこと。もし、興味がお有りなら共にアメリカに渡ってみませんか?」
と誘うと、顔が晴れやかになり。
「願ってもない事です。是非、アメリカに渡ってあちらの商いを学んで、兄の役に立ちたいと思っていたのです」
と言うと、一も二もなくといった様に握手を求めてきた。その握手には、学生とは思えぬ力強さがあった。商いへの情熱が、その手から真っ直ぐに伝わってくる。正様が名を挙げた理由が、少しだけ分かった気がした。後は、佐藤百太郎殿と合流してから動いた方が良いだろう。そう思うと、彼の到着が待ち望まれた。




