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文久3年(1863年)5月 江戸深川 木場町 伊達正

追手を逃れ、10年振り戻った深川は、すっかり様変わりしていた。あの頃は粋で風流が似合う、通人がかよう場所であった。安政の大地震や桜田門外の変を経て、一歩奥に入れば浪士や後ろ暗い者達が行き来する危険な地へと変貌していた。

それでもここ木場町は、それほどまでには変わっていない。材木を商うもので賑わい、船頭や荷役人足威勢のいい掛け声が雑多な活気に満ちていた。

その一角で木挽職人や荷役人足の怪我を看てやるかわりに、格安で借り受けた長屋の一角が江戸での住まいになっていた。「若先生、源蔵のやつが足を滑らせて腕を切っちまった。看てやってくんねぇか」顔馴染みの木挽職人である元太に支えられた、源蔵と呼ばれた男の腕は朱に染まっていた。「どれ…指は動くか」そこまで深い傷ではないようだ。「余り無茶をしてはいけないな、傷を縫って様子を診よう」消毒を施して、元太と助手の新八郎に源蔵の身体をしっかり固定してもらい、曲がり針走らせ、裂けた皮膚を手早く縫い合わせる。冷や汗でぐったりしている源蔵に向かって「薬を塗って、油紙を巻いておく。決して水に濡らすな、傷口が腐ってしまうからな」脅し半分に、注意を言って聞かせる。「元さん、親方に暫く休ませるように言ってくれ。その時に傷口を診て、判断すると」元太は頷くと、お代のことに話を向けた。「お代いつも通り、月末に親方が用立てますんで…」ちゃっかり、そんな言葉がぴったりな様子でぺこぺことする元太へ。「ならば、いつもの深川飯で手を打とう。二人分だぞ、それで月末までは待とう」へい、そう言うと源蔵に肩を貸していそいそと帰路についた。

一刻ほどして患者が引いた頃合に、元太が深川飯を持って訪れた。「若先生、どうぞ袖の下です」商人の若旦那を気取った声音で、またあのちゃっかり顔で差し出した。「馬鹿もの、袖の下とは袖の下に隠して渡すから袖の下なのだ。これでは隠しようがないではないか」笑いながら茶化す様を、半分呆れながら見ていた新八郎が「では、冷めないうちに頂きましょう」と、素っ気なく丼をひったくる。「長崎にも旨い海鮮はあったが、これ程気取らずに食える旨い物は無かった」無言で頷きながら飯を掻っ込む新八郎をよそに、深川飯の味噌で煮込まれたあさりの香りを堪能する。「うん、旨い」そう呟くと気取ることなく、皆のように掻っ込んだ。


五月の爽やかな空の下、もうじきに迫る最大の危機と転機をこの中の誰が知り得ただろうか。

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