文久3年(1863年)1月 江戸本所 勝海舟邸 伊達正
正月の浮ついた空気も薄れ、江戸はようやく普段の冬へ戻りつつあった。それでもここ本所は低地の湿地帯だった名残りか、寒いことには変わりはないが乾燥した底冷えとは無縁のように思えた。連れ立って遊びに行く子供の声と、荷を運ぶ船頭の掛け声を背に細い街路へ身を滑り込ませた。
昨年の襲撃騒ぎの顛末をご報告に上がる為、勝麟太郎殿の邸を目指していた。謝罪と弟子入り懇願の為、竜馬が同道している。「御免」そう声をあげると、中から家人が現れたので先日の騒ぎのご報告にあがった旨を伝えた。
程なくして、奥の間に通された。男は客が通されたにも関わらず、顔も上げず書に目を落としていた。「某、昨年緒方洪庵先生にご紹介戴いた、伊達正と申します」勝とおぼしき男は、居住まいを正して問い掛けてきた「それで襲撃の件は、どのように相成ったのですかな」勝殿の言葉が切れるのを待てずに、竜馬は畳に額がつくほど深く頭を下げた。「まっこと申し訳ないぜよ。これから先、あの者にゃ二度とここへ足ァ向けさせんきに」呆気にとられた勝殿を尻目に、竜馬がまくし立てる。「このお人に聞いたがぜよ。勝殿ぁ、黒船を差配できるっちゅうて」尚も、足りぬと言わんばかりに続ける。「わしは黒船を操って、世界の海へ漕ぎ出したいがぜよ」半ば呆然としていた勝殿が、身を乗り出して竜馬へ聞いた。「あんた土佐のお人かい、ジョン万次郎を知っているか?」勢い良く顔を左右に振る竜馬が滑稽で、自然と空気が緩んでいくのが見て取れた。「確か土佐は中浜村の出だと聞いた、海で遭難してアメリカの捕鯨船に助けられ、暫く向こうで暮していたらしい」竜馬は身を乗り出さんばかりに、聞き入っている。どうやら自分は、完全に部外者の位置に追いやられたようだ。熱を持って話し合う二人に、折を見て辞去する旨を伝えたが…話に夢中で蚊帳の外であった。
後にこの時のことをどれ程後悔したことだろう。自ら人を殺めることも慚愧に堪えぬのに、自らの影響や示唆で親しき人を死に追いやることがこれ程までに堪えるとは…この時はまだ知る由もなかった。




