明治6年(1873年)10月 神奈川県横浜 伊達正邸 伊達正
当初の予定では、5月には横浜を出航してニューヨークへ向う予定だった。それが正宗の、自分以外の最後の肉親である小川甚兵衛の他界によって頓挫した。楓が嫁ぐ折、養父として送り出してくれた叔父は、廃藩置県後に自分の祖父が東京に残した大洲商会へと入った。実質、維新後には宇和島へと戻った大洲屋を、自分が東京の情報を収集するために残した商会だった。それ程忙しくもなく、経理全般をお願いしていたのだが…。正宗も、血の繋がった身内は自分一人になってしまった。
最初は、楓の父上と同じ故郷の高松の寺へ。とも思ったのだが、あちらでは供養に来てくれる者もいない。と未亡人となった叔母の鈴殿が言われるので、楓と同じ成仏寺に葬ることになった。それに合わせて、高松にある小川家の菩提もこちら引き取るべく名東県へ向かった。正宗に母・楓の故郷を見せてやりたい、その思いもあった。
叔父夫婦に子は無く、正宗を本当の孫のように可愛がってくれていた。その意味でも、叔母には菩提を弔っていただくべく神奈川宿に住まいを移して貰った。これから日本を離れる正宗の乳母、静に叔母の元で働いて貰うことになった。こうして諸々事態を片づけているうちに、征韓論争に敗れた西郷隆盛が政府を去った。これは徴兵令以降燻っていた、不平士族達を巻き込んだ内戦への発展も考えられる。
日本を発つ前に一度、三菱商会の岩崎弥太郎殿会わねばならないだろう。今後、騒乱が起こるならば西日本。大阪にある三菱商会の機関事業である海運、これが大きく飛躍する足掛かりになり得る。その辺りの話をするべく、一度横浜に来て貰えるよう又四郎に連絡を取った。もしかしたら、これが最後の機会であったかもしれない。又四郎を呼び戻し、アメリカへと連れて行けば…。権力という名の悪魔に魅入られ、道を踏み外すことが無かったかもしれない。だが、忠七を連れて行かない事。大阪に又四郎を送り出した時の事を思い出し、躊躇せざるを得なかった。この時の選択が、後にどれほど大きな意味を持つのか。その時の自分は、まだ知る由もなかった。




