明治6年(1873年)1月 神奈川県横浜 ダスティ商会 伊達正
この年をもって、我が国でも太陽暦――西洋でいうグレゴリオ暦が用いられることとなった。なので、明治5年に12月3日は存在しない。2日の翌日が明治6年の元旦となったのである。年の瀬など感じる暇も無く、明けてしまった感じである。前年、又四郎を通じて岩崎殿より三川商会から三菱商会への変更。それに伴って、これまでの配当を三菱に投資してくれるよう打診されていた。…相変わらず、強引で有無を言わせぬ力業だ。
「商会の名を変えるから追加で投資してくれ」
とは、相変わらず岩崎殿らしい力業である。だが、官営ではなく民間の大型商会は必要である。それ故、又四郎を通じて承諾の意を岩崎殿に伝えて貰った。ただ、懸念もあった。岩崎殿にではない、又四郎にだ。余りに早い成長に、外に出すのが早過ぎたのではないか。忠七のように、心を伝えることを怠ってしまってはいないか…。この事が後日、大きな災いとなることを、この時の自分はまだ知らなかった。
さらに1月の半ばには徴兵令が布告された。成人した男子には兵役の義務が課せられた。もっとも、金で免れる道もあり、すべてが等しく徴される訳ではない。今一度、アメリカへ渡ることも考えねばなるまい。佐藤百太郎殿より一度帰国し、アメリカで商売をする者を募りたい旨の手紙を受け取っていた。彼が帰国するのなら尚更、向こうでの業務を遅滞させぬためにも、ニューヨークへ戻らねばなるまい。
百太郎殿の手紙には、ニューヨークでの投資についても書かれていた。Standard Oil社は順調に、競合他社を傘下に入れ規模を拡大しているとのこと。一方でParke-Davis社は、業績を拡大しているものの資金が枯渇しその都度、運転資金を投資しているらしい。だが確実に医師達の信用を得て、全米への流通網の構築にまで漕ぎ着けようとしていた。これらの話も実際に現地で話し合うためにも、もう一度アメリカへは行かねばならぬ。
そして此度こそは、愛息である正宗に広大なるアメリカを感じさせてやりたい。自分が留守にするので、忠七には横浜に残って貰わねばならない。今の忠七は、留守を任せるに足る商人へと成長している。さらに成長させるためにも、同世代である百太郎殿と顔を繋ぎ刺激を受けて貰いたいとも思っている。自分だけが教えられることには限りがある。人は人との出会いによって育つ。百太郎殿との出会いが、忠七をさらに大きく成長させてくれることを願いながら、新たな渡米の支度を進めた。




