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明治2年(1869年)4月 相模国横浜 太田町日本人長屋 伊達正

楓の健康状態が非常に悪い、強い頭痛に光がちらつくような目眩があるという。重度の妊娠中毒症の可能性がある兆候だ。蘭方医として、患者を診察していた頃に何度か出会ったことがある傾向だった。日に日に衰弱していく楓は、うわ言のように繰り返していた。「私はどうなってもいいから、この子だけは何としても助けて」夫として、父として。客観的に患者としては、とてもではないが見られない。


横浜にいる腕を見込んだ西洋医に、楓を託すことに決めた。比較的に早産にはなるが、現段階ならばかろうじて母子共に助けることが叶う…はずだった。だが、逆子での分娩に西洋医は。「どちらかを諦めなければならない場合、どちらを選ばれますか?」という、残酷な問いを投げかけてきた。自分の胸中には、うわ言のように呟く楓の声が響いていた。「子供を…」それ以上は言葉に出来なかった。医師は頷くと、処置のため奥へと戻って行った。


「正様、楓は幸せでした。…ただこの子の成長を見守れないのだけが心残りです」中毒症に加えて、分娩での大量出血。血色が悪い楓が、最期の力を振り絞って続ける。「正宗…良い名前でしょ、父上と貴方様の名前を取って。貞山公みたいね」力無く笑う楓の手を、強く握りしめた。「そうだな、強く逞しい男子に育ちそうだな」微笑んでみたつもりだが、笑顔にはなっていなかっただろう。「もういい、これ以上喋るな」楓の手を両手でつつみ込んで、拝むような姿勢になった。「貴方様、ありがとう…」と言い残すと、楓の手から力が抜けた。何度呼び掛けても、返事は無かった。ただ眠るように、安らかな顔をしていた。


もう自分一人となったと思った。…いや、違う。腕の中には正宗がいる。この子に恥じない生き方をせねば、まずアメリカに渡ろう。友との約を果たさねば、一体どんな顔で息子に接せられよう。正宗に恥じぬ父は、決して約を違えるような男であってはならない。あの成仏寺での葬儀を終えると、息子を抱え夜空を見上げた。星を見つめながら「母様はあの星になって、そなたを見守ってくれているからな」その時、初めて嗚咽をもらして咽んだ。

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